こんにちは、あやめです。

 

今日は明治時代にの日本の海外との接点にについて。

 

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(日本人がはじめて食べたアイスクリームの再現@食の會日本橋)

 

明治時代に日本は、開国してからまもなく、

国として日本から7回海外使節団を送っている。

 

キリスト教の普及目的と藩としての使節団を抜かすと、

③④⑤⑦⑧であり、日本国として初めての使節団は万延元年使節団である。

 

 

この万延元年使節団では日本の首脳陣がほとんど乗船し海外の文化を視察し、日本に持ち帰った。

 

その際訪問した諸外国ではおもてなしの宴が度々催され、

当時の最上級の西洋料理が振る舞われ、使節団一行は西洋の食文化に触れた。

 

つまり、この使節団に随行していた人々が、海外でのおもてなしの正当な料理とされていたものをいただいたことになる。

 

 

修論は福澤諭吉テーマなので、それも記載。

 

①    1582年-1590年 天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)

目的:イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案し、キリスト教の理解を深め、日本に持ち帰ることが目的。随行員も宣教師のみ。

 

②    1613年(慶長13年)慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)

目的:仙台藩主伊達政宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン国王・フェリペ3世、およびローマ教皇・パウロ5世のもとに派遣した使節。目的は、スペインとの貿易を行うとのことで幕府から許可を得た。

 

③    1860年(万延元年)万延元年遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)

目的:開国後日本初の公式訪問団。江戸幕府が派遣し、日米修好通商条約の批准書交換のための77名から成る使節団である。(福澤諭吉も随行)

 

④    1862年(文久元年) 文久遣欧使節(ぶんきゅうけんおうしせつ)

目的:江戸幕府が修好通商条約を交えた海外の港と延期交渉などため、ヨーロッパに派遣した最初の使節団。(福澤諭吉も随行)

 

⑤    1864年(元治元年)横浜鎖港談判使節団(よこはまさこうだんぱんしせつだん)

目的:横浜の開港を再度閉鎖する交渉を行うために幕府が派遣したフランスへの使節。

 

⑥    1865年(元治2年)薩摩藩遣英使節団(さつまはんけんえいしせつだん)第二回遣欧ともよばれる。
目的:薩摩藩がイギリス外相への外交協議のため、視察係3名と留学生15名をイギリスへ派遣した使節団。

 

⑦    1867年-1868年(慶應3年-明治1年)パリ万博使節団[2](ぱりばんぱくしせつだん)

目的:徳川慶喜が弟昭武(のちの水戸藩主)に命じ、万国博覧会に日本代表として参加するための使節団。渋沢栄一も随行。(福澤諭吉随行)

 

⑧    1871年-1873年(明治4年-明治6年) 岩倉使節団(いわくらしせつだん)

 目的:大隈重信が発案し、岩倉具視をリーダーとして政府首脳人107名で構成された
 

 


[1] 海外使節団の定義によっては8回との記載もあるが、

[2] 外交史料に見る日本万国博覧会への道(外務省)(https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/banpaku/page1.html