木村幸比古さん著作の「吉田松陰の実学:世界を見据えた大和魂」にて、

 

 

藩主徳川斉昭は、大砲鋳造にあたり藩内の寺の梵鐘を大量に鋳つぶして造ったことから僧侶らが仏教弾圧だとして騒ぎ、軋轢が生じたため藩主自ら新道へ改宗し、藩士もこれに従った。

 

徳川慶喜が大正2年(1913)11月21日に病死した際、将軍の葬儀は天台宗、浄土宗の仏式であったにもかかわらず、父斉昭にならい神葬で執り行われた。寛永寺本堂の使用が認められず第二霊屋前に大テントを張り巡らし、斎場に勅使が参向、祭主は神田明神宮司大教正、平田盛胤がつとめ、誄詞をあげたと各紙が報じている。