イスラム国が湯川氏を殺害 | そんなこともあった

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特別なことはない

ニュースはイスラム国が湯川氏の殺害をしたことに関することで一色だ。


色んな憶測や世論扇動に惑わされずに記録を残しておくことにする。思い付いたままの書き込みな為、内容が飛躍する場合多々あり。


湯川氏が、昨日イスラム国が発信した殺害画像で明らかなのは間違いないようだ。

日本政府の発言も「信憑性が高い」とのことであることからも残念ながらそうであろう。

まず、

腹立たしい。遺憾や憤りを通り越して、ただただ腹が立って仕方ない。

何に対してか?

もちろん、スンニ派超過激集団イスラム国のならず者集団に。である。

日本のヨルダンに対しての2億ドルの援助は人道支援である。

罪のない弱者を救う為に使われるものであり、決して戦闘に加担するものではない。

政府も発信し続けたがこの結果である。

ある報道番組では、イスラム国戦闘員のインタビューを報道していた。その戦闘員達は明らかに日本政府の立場を履き違えていた。そのことがもどかしくてしょうがなかった。


湯川氏に関して去年の8月にイスラム国過激集団による拘束が確認された時の報道では、

「自業自得だ」との声が多かった。

政府は渡航する者に対して慎重だったのにも関わらず行ったのだからと。自己責任だと。

だからといって政府は見殺しで何もしない訳にはいかない、救出する為に水面下で交渉できるよう動いていたことだろう。


そして今回、湯川氏を助ける為に向かった後藤健二さんも拘束され72時間という期限付き&2億ドル要求された時点で、

自分は対応策として

・イスラム国に交渉できる人や国の伝手を使って日本政府の支援理由を明らかにするべき。

・2億ドルは払ってはいけない。

という考えであって、当に政府もそのような判断であったこと、安倍首相の声震える遺憾声明を聞いて間違っていなかったと実感した。


ヨルダンはアルカイダ過激集団のテロ犯であるサジダ(女)死刑囚を拘束している。

イスラム国は、その女の解放と後藤氏の解放を交換条件としている。

日本政府はヨルダン政府に女の解放を迫ってはいけない。悪魔でも判断はヨルダン政府に委ねるものであって、もしするとするのならばお願いする側であるということ。

ヨルダンにもイスラム国に拘束されている人質がいること、ヨルダン国民の感情もあることを十分に踏まえて慎重に行動して欲しい。

自分としては、

サジダの解放条件には呑まないこと、今まで通り日本は人道支援で中東の平和を願っているとの立場を強く表明することを望む。



日本政府の立ち位置をしきりに取り沙汰して安倍首相と政府批判に持っていく報道機関がある。それもまた腹立たしい。

日本はテロには屈しない。これはアメリカ、イギリス、フランス、ヨルダン、サウジ・・・多くの国と同じだ。

決して「アメリカ側だ」というだけの悪意のある区分けの発言は許しがたい。

そして日本は中東の国との友好関係は、アメリカにはできないお付き合いを独自に築き上げてきたことも確かな事実だ。資源、支援と密接に関わってきた。

これほどはっきり立ち位置がわかっていることを、さも日本が悪い立ち位置にいるかの論評はいかがなものか。

この期に及んで安倍首相批判、政府批判をしている者はもっての外。向ける方向が間違っている。



日本は、今回のこの事件で、自国民を守れない国であることを突き付けられた。

情けない・・・

各国にある日本大使館も守れない国、それが今の日本。

自衛隊は日本国軍として機能しなければならない時代が今ここに来ているのではないか。

憲法9条を掲げてれば安全な日本を持続できるか?

今までの日本国民の生命の安全はアメリカの軍事同盟の恩恵によるものである。

GHQによって布かれた日本国憲法を今まさに日本国民が覚醒して新たに作らなければならない。


日本国軍として今回の日本国民を救出するのに出動できたら、どれほど普通の国でいられることか。

海外ロンドン市民の声で、「日本だけがイスラム国の脅威から逃げることはできない」とあった。

本当にそうである。

積極的に平和を唱えるには、逃げていては駄目なのである。



経済は生き物である。

こんなことがあろうとも経済を滞らせてはならない。

自分の生活もあるのだから働かなければならない。

だからといって、このような事が起こっていることに向き合わずにお花畑でいることは、いい加減脱出しないといけない局面に来ている。



そして非常に迷ったが、

この下に今回イスラム国が発信した湯川氏の殺害画像を貼っておく。

もし、このブログに流れ着いた人で見る必要のない人はここでブログを閉じて欲しい。

勘違いしないで欲しい、

現実をしっかり受け止める為、温い考えに喝を入れるものとして残しておくのである。