今日、12月24日はクリスマスイブですが、特別なことは特になく、通常の週末のように過ごしています。
週末ということもあり、中山信弘東大名誉教授の自伝「ある知財法学者の軌跡」を拝読いたしました。今年、2022年に弘文堂から刊行されています。
中山先生は1945年5月という終戦の年に出生しているので、77才、喜寿のときに本書を刊行したことになります。
つつがなく喜寿を迎えられましたことを心よりお慶び申し上げます。まだまだ現役でご活躍なされていて尊敬しています。今後もご指導、ご鞭撻をお願いできましたら幸甚に存じます。
中山先生は1969年に東京大学法学部を卒業し、同年、東京大学法学部助手に就任していますが、この時期に東大紛争が勃発しています。
即ち、1968年から1969年に東大紛争があり、1969年1月18日及び19日に警視庁が、東京大学本郷キャンパス安田講堂に占拠していた学生を摘発しています。1969年に予定されていた東京大学の入学試験は中止になり、1969年4月に東京大学に入学する学生はゼロでした。
中山信弘先生の回顧録で東大紛争について描かれているのですが、現代史の証人という要素があり、実に興味深い。
また、自叙伝には持病の腎臓病のことも詳細に記載されています。それにしても週に3回、透析を受けながら、知的財産法の学者としてあれだけの業績があるというのには、改めて驚きます。
同期又は後輩のなかには既に逝去した学者もいらっしゃるのですが、若い時から腎臓病を患っているのにもかかわらず、現在も生きていることに感謝なさっています。塞翁が馬という故事が浮かびます。
ところで、我田引水になるのですが、私は中山信弘先生の押しかけ弟子と自称しています。ポイントは自称ということであり、私が中山信弘先生の弟子と思う人が他にいるかとなると、そこは不知ということにいたします。
私は東大工学部を卒業していますが、東大法学部を卒業したわけでもないですし、中山信弘先生が主宰する研究室の研究員だったわけではありません。
しかしながら、ありがたいことに中山信弘先生とご縁があります。私は日本工業所有権法学会の会員になっているのですが、この推薦人が中山信弘先生になります。
「ある知財法学者の軌跡」にも記載されているように、中山信弘先生は日本弁理士会中央知的財産研究所の設立以来、委員長、委員に就任なさっています。この中央知的財産研究所の会合を通じて中山信弘先生の知己となり、推薦人を依頼したところ、快諾して頂きました。
通常、学会の会員になるとき、大学の研究室、ゼミを主宰する教授が、教え子の推薦人になります。学会の会員になるときの推薦人を巡る実情を強調したときには、弟子といってもよいのではないかな。
とはいっても、東大法学部中山研究室の出身ではないので、日本工業所有権法学会の推薦人というだけで弟子といってよいかとなると、ゴニョニョということもあるのですが、ここでは一応、押しかけ弟子ということにしておきます。
また、中山先生が古希を過ぎてから推薦人になった点を強調いたしますと、最後の押しかけ弟子ということになるのかもしれません。