3月は学会シーズンなので、多くの学会に出席するのを予定していた。しかし、コロナウィルス対策のため、学会は次から次へとキャンセルされる。

 

今日は週末なのだが、学会に行く機会もないし、学会発表の準備もないので、結局、のんびりと読書をしている。

 

久しぶりに哲学書を読んでいるのだが、実に新鮮である。日頃、哲学書は読んでいないし、学生時代に哲学を専攻していたわけではないので、哲学のことは良く分かっていない。すると、哲学としては基本的なところかもしれないのだが、新鮮な知的刺激となっている。

 

それにしても哲学書を読んでいると、哲学者は、このようなことを考えていたのだなぁというのが実に良く分かる。

 

哲学は役に立たない学問の典型例とされているが、じっくりと哲学書を読んでいると、哲学が次の世代に大きな影響を与えるということが分かってくる。

 

法の基盤が哲学になっているのだが、哲学の進展に対応して法律の基本的な部分が改正されると、世の中が大きく変わる。

 

例えば、ナチスドイツで辣腕をふるったアドルフ・アイヒマンが戦後、イスラエルで裁判を受けたとき、アイヒマンはナチス時代にカント哲学を実践していたという趣旨の証言をしている(文献1,2)。アイヒマンはカントの「実践理性批判」などにある定言命法を理解しており、定言命法の実践として、多数のユダヤ人を強制収容所に輸送したということになる。すると、アイヒマンによると、命令に従って、多数のユダヤ人を強制収容所に移送するのは倫理的に正しい行動ということになる。

 

カント哲学については勉強不足なので、カント哲学とナチスドイツ時代の官僚の行動との関係は良く分からない部分もあるのだが、大雑把にいうと、カント哲学は義務を重視しており、義務を履行することは倫理的に正しいとされている。

 

公務員が上司の指示に従って、自己の職務を遂行するのはカント哲学によると、倫理的に正しいということになるのではないのかな。

 

ところで、アイヒマンが公務員として職務を遂行することにより、10万人とか100万人のユダヤ人が毒ガスで殺害されることになるのだが、それでも職務を遂行するのは正しい、のだろうか。

 

いずれにしろ哲学の実践を通じて、10万人とか100万人が殺戮されるのは、到底、倫理的に正しいとは思えないのだが…

 

どこかの国家公務員、具体的には防衛省情報本部に所属する公務員が、電波兵器から電波ビームを多数の国民に照射する攻撃をしかけているのだが、公務員として忠実に職務を遂行しているだけ、ということになるのかな。

 

更に、公務員に課せられた守秘義務を遵守して、電波兵器のことは知らない、分からない、存在するわけがないとシラを切るのは、人間としてどうなのでしょうね。

 

更に、電波兵器から電波ビームを照射して、マイクロ波聴覚効果を通じて犯罪を教唆する一方、電波兵器そのものを否定する。

 

日本が法治国家というのは建前に過ぎず、実際は、国家公務員は守秘義務など法律の一部の規定を遵守する一方、大きなところで法律を全く遵守していない。

 

電波兵器を使って罪刑法定主義に違反しても、電波兵器の存在及び使用が立証できない限り、罪刑法定主義に違反している実態は露顕することはない。

 

永年に渡って、国家機関に所属する巨悪は、スケール大きく犯行を実行する。

 

文献

1 ハンナ・アーレント、大久保和郎訳、エルサレムのアイヒマン、みすず書房、2017年

 

2 伊藤正博 ハンナ・アーレントが言わなかったこと、大阪芸術大学紀要藝術、(26)、2003

https://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou26/kiyou26_02.pdf

 

脚注

カント哲学とアイヒマンの関係については、大阪芸術大学芸術学部の伊藤正博が文献2が詳細に論じている。

 

2020年3月8日加筆修正