満州事変から太平洋戦争に至る歴史を振り返ると、

当時の日本は世界の潮流を読み違えています。

 

1914年から1918年にかけて第一次世界大戦がありました。

 

この戦禍を教訓として、戦争を止めようという機運が世界で高まりました。

 

具体的には、1918年1月8日にウッドロー・ウィルソン米国大統領が

平和原則を発表して、国際平和機構の設立を提唱しています。

 

この平和原則が単なる理想論に留まらず、

実際に国際政治を動かす潮流になっています。

 

ドイツと連合国の間で締結された講和条約、通称ベルサイユ条約に

国際平和機構を設立する旨が明記されています。


そして、ベルサイユ条約が効力の発生するタイミングに一致して、

1920年1月10日に国際連盟が創設されています。

 

国際連盟は戦争をすることなく紛争を解決することを目的としています。

 

ちなみに国際連盟は集団的自衛権を採用していました。


即ち、国際連盟の加盟国の一か国に対して武力行使があったときには、

国際連盟の加盟国全体が自衛権の行使として、

侵略国と戦争するというものです。

 

米国は国際連盟を提唱したのにもかかわらず、

米国は国際連盟に加盟していませんでした。

 

しかしながら、1928年(昭和3年)827日に

アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本など

15か国が署名し、戦争放棄に関する条約、

別名、パリ不戦条約を締結しています。


締約国は互いに戦争を放棄して、紛争は平和的手段により

解決することを規定しています。


戦争放棄に関する条約は、ソビエト連邦共和国など

合計63か国が署名しています。

 

このように戦争を放棄して、平和的手段により紛争を解決する方針は

世界各国が採用しています。


また、国際連盟規約や戦争放棄に関する条約は、国際法の一部であり、

国家を制約するものです。


国内法には様々な法律がありますが、

同様に国際法には様々な条約があるのです。


国際社会の潮流は、戦争を放棄するというルールに限られず、
具体的に軍縮にまで及んでいます。
 

1922年にワシントン海軍軍縮条約が締結され、

1930年にロンドン海軍軍縮条約が締結されています。

 

ところが、日本政府、特に海軍省及び陸軍省は

このような世界の潮流に逆らい、

日本の独自路線を追求します。

 

大蔵省の官僚出身である濱口雄幸首相が

ロンドン海軍軍縮条約を締結したのですが、

19301114日、濱口首相は岡山県で銃撃されています。

 

手術が成功して、濱口首相は1931年1月に退院しますが、

結局、濱口内閣は1931年4月14日までしか続きませんでした。

 

首相を殺害するテロを実行するのですから、

当時の海軍省、陸軍省に国内法を遵守するという意識は全くありません。

 

国内法を遵守しないのですから、

国際法を遵守するわけがありません。

 

1931年9月18日に

関東軍が南満州鉄道の線路を爆破して、満州事変が勃発しています。

 

これが契機となって、日本と中国が戦争を始めており、

パリ不戦条約は全く遵守していません。

 

また、紛争を平和的に解決するという国際連盟規約も遵守していません。

 

国際連盟の理事国は4か国でしたが、日本は設立当初から理事国であり、

国際社会において確固たる地位を占めていました。

 

理事国は国際連盟規約の違反を咎めるべき立場なのにもかかわれず、

理事国が率先して国際連盟規約に違反したのです。

 

リットン調査団が満州事変について調査して、

報告書を国際連盟に提出します。

 

1933年2月24日、国際連盟総会はリットン報告書について審議して、

満州について中国の統治権を承認し、日本軍の撤退を決定しました。

 

この票決は賛成が42、反対が1、棄権1でしたが、

唯一の反対票を投じた松岡日本代表団は議場から退場して、

3月27日に国際連盟脱退を通告しました。


このときに国際連盟の勧告に従い、関東軍が満州から撤退して、

国際連盟規約を遵守すればよかったのです。

 

ところが、日本は国際連盟を脱退して、

戦争を継続するというおバカな決定をしました。

 

戦争が勃発すると第一次世界大戦のような

戦禍に発展するという教訓が全く分かっておらず、

世界の潮流に逆行したのです。

 

更に、1933年5月15日に海軍将校がクーデターを起こして、

犬養毅首相を惨殺し、海軍省が権力を掌握します。

 

海軍に反対する政治家は殺害するという断固としたテロリズムにより、

日本は戦争をひたすら継続したのです。

 

ところで、戦前の海軍は銃撃などによりテロを実行していました。

 

戦後、武器、兵器の進歩により、

銃撃以外の手段により暗殺が可能になっています。

 

2012年9月に自民党総裁選がありましたが、

自民党町村派から、町村会長が出馬したのにもかかわらず、

町村派から安倍氏が出馬して、町村派は分裂しました。

 

安倍氏は既に首相を経験していますから、

自民党の慣習では二度目の総裁になるということはありえないのです。

 

ところが、自民党総裁選の最中に町村氏は病気で倒れ、

安倍氏が自民党総裁になり、その後、総理大臣になっています。

 

また、2013年4月1日、東京都渋谷区恵比寿南のマンションの一室で、

内閣府情報調査室内閣参事官、加賀美正人氏(50才)が自殺しました。


加賀美正人氏は外務省国際情報統括官組織から出向しており、

ロシア問題の専門家です。

 

最近では、前財務事務次官の香川俊介氏が58才の若さで

2015年8月9日にガンで死去しています。

 

防衛省が推進する国家安全保障政策、即ち、

憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認する法律の成立に

反対する要人が密かに暗殺されている可能性がないわけではありません。