人生を危険にさらせ。
―「悦ばしき知識」―

・同情するものは自分は強者であると信じている。だから助けることができるとあらば、すぐにでも介入したくなる。
―「遺された断想」―

・十分に自分自身を支配する力がなく、絶えざる自己支配・自己克服としての道徳を知らない人は、
無意識のうちに善良で同情的な情動の崇拝者になってしまう。
―「人間的な、あまりに人間的な」―

・あなたにとってもっとも人間的なこと。それは、誰にも恥ずかしい思いをさせないことである。
―「悦ばしき知識」―

・誰も学ばない、誰も知ろうとしない、誰も教えない。――孤独に耐えることを。
―「曙光」―

・我々はたえずなにかを『逃し』はしまいかと思う者のように生きている。
『何もしないよりは何でもいいからせよ』という原理が全ての文化の高級な趣味の息の根を止める。
―「悦ばしき知識」ー 

・自分に命令する力のないものほど、自分を命令するものを求める。
―「悦ばしき知識」―

・ここにはまことの男が少ない。だから、女性が男性化する。つまり、本当に男らしい男だけが女の中に女を解き放つ。
―「ツァラトゥストラかく語りき」―

・愚か者はよい暮らしを得ても、それよりもっとよい暮らしを求める。

・多くのことを中途半端に知るよりは何も知らないほうがいい。
他人の見解に便乗して賢者になるくらいなら、むしろ自力だけに頼る愚者であるほうがましだ。
―「ツァラトゥストラかく語りき」―

・手のひらほどの広さの底があれば、人はその上に立てる。真の良心的な学問の世界には大小の区別はない。
―「ツァラトゥストラかく語りき」―

・私は君たちに、君たちの官能を殺せと勧めるのではない。私が勧めるのは官能の無邪気さだ。

・独創的――何かの新しいものをはじめて観察することではなく、古いもの、古くから知られていたもの、
あるいは誰の目にもふれていたが見逃されていたものを新しいもののように観察することが真に独創的な頭脳の証拠である。
―「人間的な、あまりに人間的な」―

・善とは何か――人間において権力の感情と権力を欲する意志を高揚するすべてのもの。
悪とは何か――弱さから生ずるすべてのもの。
―「反キリスト」―

・生きるとは何のことか――生きるとは、死にかけているようなものを絶えず自分から突き放していくことである。
―「悦ばしき知識」―

・真実の山では、登って無駄に終わることは決してない。

・誰であれ、若いうちは、思う存分遊ぶべきである。
長いあいだ活字の森にばかりいると、そこから抜け出られなくなるものだ


・人間のみがこの世で苦しんでいるので、笑いを発明せざるを得なかった。
―「権力への意志」―

・人間は深淵に架けられた一本の綱である。
渡るも危険、途上にあるも危険、後ろを振り返るも危険、身震いして立ち止まるのも危険。
―「ツァラトゥストラかく語りき」―

・狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例である。
―「善悪の彼岸」―

・自殺を想うことは強い慰謝剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごせる。
―「善悪の彼岸」―

・怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。


・私は隣人に対する愛を諸君には勧めない。私が諸君にすすめるのは遠き者に対する愛である。
―「ツァラトゥストラかく語りき」―

・苦しみを共にするのではなく、喜びを共にすることが友人をつくる。
―「人間的な、あまりに人間的な」―

・我々のうちでもっとも勇気のあるものでさえ、
自分が本当に知っていることに対する勇気を持つのは、まれなことだ。
―「偶像の薄明」―

・人間は行動を約束することはできても、感情は約束できない。
自己欺瞞なしで永遠の愛を誓うものは、愛情の見せかけを永遠に約束するものだ。
―「人間的な、あまりに人間的な」―

・武装平和とは、自国と隣国を信頼せず、半ば憎悪、半ば恐怖から武器を放棄しかねる意向上の平和である。
―「人間的な、あまりに人間的な」―

・どちらも相手を通して自分個人の目標を何か達成しようとするような夫婦関係はうまくいく。
例えば妻が夫によって有名になろうとし、夫が妻を通して愛されようとするよう場合である。

・地球は皮膚を持っている。そしてその皮膚はさまざまな病気も持っている。
その病気の一つが人間である。
―「ツァラトゥストラかく語りき」―

・男が本当に好きなものは二つ――危険と遊びである。
そしてまた、男は女を愛するが、それはもっとも危険な遊びであるからである。 

・人間とは神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。 

・脱皮できない蛇は滅びる。その意見をとりかえていくことを妨げられた精神も同様だ。
―「曙光」― 

・高く登ろうと思うなら、自分の足を使うことだ!
高いところへは、他人によって運ばれてはならない。人の背中や頭に乗ってはならない!
―「ツァラトゥストラかく語りき」

・到達された自由のしるしは何か?――自己自身に対して恥じないこと。

・話題に窮したとき、自分の友人の秘密を暴露しないものはまれである。
―「人間的な、あまりに人間的な」―

・多く考える人は党員には向かない。というのは党派などを突き抜けて考えてしまうからである。
―「人間的な、あまりに人間的な」―

・事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
―「権力への意志」―

・善悪において一個の創造者になろうとするものは、まず破壊者でなければならない。
そして、一切の価値を粉砕せねばならない。
―「この人を見よ」―

・悪意というものは他人の苦痛自体を目的とするのではなく、われわれ自身の享楽を目的とする。

・君は言う「善行のためには戦いを犠牲にせよ」と。私は言う「善戦のためには万物を犠牲にする」と。
―「ツァラトゥストラかく語りき」―(管理人注;ゾロアスターはかく語りきの意味)

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。
―「反時代的考察」―

・宗教は間接的にも直接的にも教義としても比喩としても、いまだかつて一つの真理も含んだとはない。
といのは、どんな宗教も不安と欲求から生まれたものであるから。
―「人間的な、あまりに人間的な」―

・人間は、もはや誇りをもって生きることができないときには、誇らしげに死ぬべきである。
―「偶像の黎明」―

・人間は行動を約束することはできるが、感情は約束できない。なぜなら、感情は気まぐれだからである。
―「人間的、あまりに人間的な」―

・自分について多くを語ることは自己を隠す一つの手段でもありうる。
―「善悪の彼岸」―

・恋愛結婚は誤謬をその父とし、欲望をその母とする。
―「人間的な、あまりに人間的な」―

・芸術こそ至上である!それは生きる事を可能にする偉大なもの。
生への偉大な誘惑者、生の大きな刺激である。
―「権力への意志」―

・悲観をその基盤とし、不幸と悲哀を善とするこの道徳。
この善悪の価値表は速やかに破り捨てなければならない。
―「善悪の彼岸」―

・母親は息子の友人が成功すると嫉む。
母親は息子よりも息子の中の自分を愛しているのである。
―「人間的な、あまりに人間的な」―

・日常生活で人々がおおむね正直なことを言うのはなぜか。
神様が嘘をつくことを禁じたからではない。それは第一に嘘をつかないほうが気楽だからである。
―「人間的な、あまりに人間的な」―    
超訳 ニーチェの言葉/ディスカヴァー・トゥエンティワン

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「ガラガラ蛇からサイドワインダー、ヤマカガシまであらゆる種類の蛇がおった。

六〇匹はいたじゃろう。あちこちに動き回って、囲んでいる男たちの顔を見上げ

ていた。男たちは動かず、優しい顔つきで歌っているだけじゃ。すると、大きな

ガラガラ蛇が一人の老人の方に向かい、足をはい登り、そこで眠り始めた。

それから次々と蛇がこの老人に集まり、優しそうな顔をのぞき込んでは眠り始

めたのじゃ。蛇はこうやって心の清い人間を見分けるのじゃよ。」・・・・



コアウィマ(太陽を反射する毛皮)の言葉

「ホピ・宇宙からの聖書」フランク・ウォーターズ著 林 陽 訳 徳間書店より引用

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  「真の教養とは、辺鄙(へんぴ)な農園の貧しさや都会暮らしの雑駁(ざっぱく)さのなかにいつも決まって現れてくる、あのいくつかの要点を学ぶことであり、人はひとえに次のようなことを考えなければならない。すべての偽りの絆から逃げ出すこと、ありのままの自分でいる勇気を持つこと、単純で美しいものを愛すること、自立心、快活な人間関係。これらが人間として欠かせないものだ。以上のことと、その実現にむけての献身的な努力だけが、人類の安寧になにがしかを付け加えることができるのだ。」

エマソン入門(リチャード・ジェルダード編著・澤西康史訳)日本教文社。    
エマソン入門―自然と一つになる哲学/日本教文社

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村上春樹はいまや世界中で大人気です。
しかし翻訳作品はそれほど多くの人に読まれていないように思えます。
そこで一冊紹介したい作品があります。
レイモンド・カーヴァーの「英雄は謳うまい」という本。
個人的には一生付き合える本のひとつです。
そのなかで
「聖テレサの書いた一行についての考察」
という文章があります。
長いですが引用します。おつきあいおねがいします。


「聖テレサが書いた文章の一行がここにあります。考えれば考えるほど、それは今日のこのような集いにふさわしいものに思えます。というわけで、私はそのセンテンスについて考えをめぐらせてみようと思います。それは最近出たテス・ギャラガーの詩集のエピグラフとして使われております。彼女の詩集のエピグラフという文脈で、私はこの一行を考えているのです。
 聖テレサという、三百七十三年前に生きていた傑出した女性は、このように述べています。「言葉とは行為を導くものです……言葉は魂に準備をさせ、用意を調えさせ、そしてそれを優しさへと動かすのです」(“Words lead to deeds....they prepare the soul,make it ready,and move it to tenderness.”)
 この思いは、まさにこのように表現されたからこそ、明晰さと美しさを湛えています。私はそのことを強調して申し上げたい。というのは時が移り、私たちが語ることと、私たちが行うこととのあいだに存在するはずの重要な関連性が、彼女の生きた時代のようには当然のこととして人々に認識されていない今の時代にあって、彼女の心情にはまた、私たちにはすにんなりとなじめないような、異物にも似た何かがわずかに含まれているからです。「言葉が行為へと通じます……。それは魂(ソウル)に準備をさせ、用意を調えさせ、それを優しさ(テンダネス)へと動かすのです」
 聖テレサが用いた言葉ひとつひとつには、また重みと信念をたっぷりと込めたそれらの用いられ方には、「いくぶんミステリアスな」という以上のものがあります--「神秘主義的な(ミステイカル)」と言ってしまいたいくらいです。まったくの話、それらは遙か以前の、より思索的であった時代のこだまのようにさえ感じられます。とりわけ「ソウル」という言葉がそうですね。この言葉は今ではもう教会の中か、あるいはたぶんレコード店の「ソウル」セクションでしかお目にかかれないものになってしまっています。
 「テンダネス」も同様です。最近ではこの言葉もすっかり耳にしなくなりましたね。とくにこのように衆目の集まる、めでたい場所においては。考えてもみてください。この前いつあなたはこの言葉を口にしたでしょう?あるいは誰かが口にするのを聞いたでしょう? これはさきほどの「ソウル」に負けず劣らず、供給が減ってしまった言葉ですね。
 チェーホフの小説『六号室』に、モイセイカという実に見事に描かれた人物が登場します。彼は病院の精神病棟の中に拘禁されていますが、ちょっとしたテンダネスの行為を習慣にしています。チェーホフは書いています。「モイセイカは誰かの役に立つのが好きだ。彼は仲間に水を与え、寝た人には布団をかけてやる。彼らの一人一人に一コペイカづつ持ち帰ることを約束し、新しい帽子を作ってやることを約束する。左側の全身麻痺の隣人にはスプーンで食事を食べさせてやる」
 たとえテンダネスという言葉が使われなくても、私たちはこのような描写の細部に、その存在を感じ取ります。たとえチェーホフがそのあとに、モイセイカの行為に対して割引きをつけ加えていたとしてもです。彼は言います。「彼はこのような行為を、同情心や、あるいは人道的な思惑から行っているわけではない。それはグローモフという、彼の右側の隣人に無意識的に作用を受け、彼の真似をすることでもたらされたものだった」
 刺激的な錬金術を用いて、チェーホフは言葉と行為とを化合し、私たちにテンダネスの起源と本質について、あらためて考えさせてくれます。それはいったいどこからやってくるのでしょう? ひとつの行為として、たとえ人道的な動機から切り離されたものであったとしても、それはなおかつ人の心(ハート)を動かすのでしょうか?
 何の見返りも期待せず、あるいは自覚すらなく、心優しき行為を実行する孤立した一人の男のイメージは、たまたま遭遇した風変わりな美しさとして、私たちの前にとどまります。あるいは場合によってはそのイメージは、あなたはどうなのかというまなざしとともに、私たち自身の人生に反映してくるかもしれません。
 『六号室』にはまたこんな場面もあります。心に不満を抱いている医師と、横柄な郵便局長という二人の登場人物が、何かの加減で突然人の魂について論争を始めます。郵便局長は医師より年上です。
 「じゃあ、あなたは人間の魂の不滅性を信じてはおられんわけですな?」と郵便局長は突然問いかけます。
 「信じてはおりませんとも、ミハイル・アヴェリヤーヌィチさん。そんなものを信じなくてはならない理由もありませんからね」
 「私もまあそれを疑わんでもない」とミハイル・アヴェリヤーヌィチは認めます。「それでも、私は心の底でふと感じるんですよ。私は決して死んでしまったりはしないのだとね。『おい爺さん、もう死にどきだぞ』と誰かが言う。でも私は、自分の魂の中で小さな声がこう言うのが聞こえるんですな。『そんなことを信じてはいけない。お前は死にはしないんだ』
 場面はそこで終わります。しかしその言葉は行為として残ります。「魂の中の小さな声」が生まれるのです。そしてまた私たちは、生きることや死ぬことについてのある概念のようなものを、おそらくは捨ててしまったはずなのに、たしかに細くはあるけれど簡単には引き下がらないひとつの信念に、気がつけば心を惹かれているのです。
 私がここで述べたことはいずれ、数週間あとか数ヶ月あとかわかりませんが、みなさんの頭の中から消えてしまうでしょうが、このような盛大な集いに出席したという感覚だけは、きっとあとあとまで残るでしょう。これはみなさんの人生におけるひとつの素晴らしい時代が終わり、新しい時代が始まろうとしている刻み目としての集いです。そこで、みなさんがそれぞれの運命を追求するかたわら、この言葉をひとつ覚えておいていただきたいのです。それは、「正しく真実である言葉は、行為としてのパワーを持ち得る」ということです。
 もうひとつ。公共の場においても個人の場においても、日常的用途からはじき出されて、今では絶滅の危機に瀕している「テンダネス」という言葉、これもちょっと頭にとどめておいていただきたいのです。とくに害にはならないはずです。それからもうひとつのべつの言葉。ソウル。なんなら、もしその方が馴染みやすいというのであれば、「精神(スピリット)」という言葉で置き換えてもらってもかまいません。そちらをも忘れないでいただきたいのです。あなたの口にする言葉、なす行為のスピリットに注意を払ってください。それこそが準備です。これ以上言葉は要りません。」
 
 「テンダネス」 「ソウル」 「スピリット」
これらの言葉は死語になりつつある現代ですが
今こそ必要な言葉であると確信しています。

 
英雄を謳うまい (村上春樹翻訳ライブラリー)/中央公論新社

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このブログを放置して4年になります。
もうこのサイトは更新しないと宣言しましたが前言撤回で
これからまたチョコチョコと更新していこうと思います。
マスコミに載らない海外記事さんのこの記事を読んで思うことがあったからです。
悪は打ち破れるだろうか
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-3246.html

     一部引用します

そこで、ホワイトヘッドの、我々に何ができるかという答えだ。彼は我々は“積極的な非暴力的抵抗”ができると言う。これはキリスト教徒が、ローマ帝国を分解させるのに有効だった。

イギリス植民地主義者と戦うインドのマハトマ・ガンジーにとっては有効だった。FBIの仕業の可能性が高いが、暗殺されるまでは、アメリカのマーチン・ルーサー・キングにとっては有効だった。

膨大な人数の国民を暗殺することは不可能だとホワイトヘッドは言う。もし国民が、TVのウソに耳を傾け、彼らの支配に使われる装置を購入し、プロパガンダ画面の前で楽しみ、協力するのを止めさえすれば、いかにして人間的であるべきか、いかにして道徳的であるかを、再びものの考え方を学べば、アメリカ警察国家を負かすことが可能だろう。

過去には有効だったのだから、多分また有効だろう。そうでなければ、ワシントンは、サウロンの住み処、あらゆるアメリカ国民と世界中に対する脅威であり続けるだろう。

      引用終わり

先行きの見えない現代ですが微かな、しかし確かな光を確信したからです。
まだ間に合う、やれることはあると。
小さな蟻のような存在でもやれることはあると。
 

 かなり放置したこのブログ 

 放置した割にはアクセス数結構ありますね?

 おかしいなアクセス数水増ししてんじゃないの?アメブロ・・・・。 


 いつの間にかあんのジョーカーさんのブログが無くなってたのはチョット残念。 
 
 アナログ終了まであと2日!  
 

   
   『ずっとウソだった』

この国を歩けば、原発が54基
教科書もCMも言ってたよ、安全です。

俺たちを騙して、言い訳は「想定外」
懐かしいあの空、くすぐったい黒い雨。

ずっとウソだったんだぜ
やっぱ、ばれてしまったな
ホント、ウソだったんだぜ
原子力は安全です。

ずっとウソだったんだぜ
ほうれん草食いてえな
ホント、ウソだったんだぜ
気づいてたろ、この事態。

風に舞う放射能はもう止められない

何人が被曝すれば気がついてくれるの?
この国の政府。

この街を離れて、うまい水見つけたかい?

教えてよ!
やっぱいいや…

もうどこも逃げ場はない。

ずっとクソだったんだぜ
東電も、北電も、中電も、九電も
もう夢ばかり見てないけど、

ずっと、クソだったんだぜ

それでも続ける気だ

ホント、クソだったんだぜ

何かがしたいこの気持ち

ずっと、ウソだったんだぜ

ホント、クソだったんだぜ
 
もう一度人生をやり直せるなら・・・・

今度はもっと間違いをおかそう。

もっとくつろぎ、もっと肩の力を抜こう。

絶対にこんなに完璧な人間ではなく、もっと、もっと、愚かな人間になろう。

この世には、実際、それほど真剣に思い煩うことなど殆ど無いのだ。

もっと馬鹿になろう、もっと騒ごう、もっと不衛生に生きよう。

もっとたくさんのチャンスをつかみ、行ったことのない場所にももっともっとたくさん行こう。

もっとたくさんアイスクリームを食べ、お酒を飲み、豆はそんなに食べないでおこう。

もっと本当の厄介ごとを抱え込み、頭の中だけで想像する厄介ごとは出来る限り減らそう。

もう一度最初から人生をやり直せるなら、春はもっと早くから裸足になり、秋はもっと遅くまで裸足でいよう。

もっとたくさん冒険をし、もっとたくさんのメリーゴーランドに乗り、もっとたくさんの夕日を見て、もっとたくさんの子供たちと真剣に遊ぼう。

もう一度人生をやり直せるなら・・・・

だが、見ての通り、私はもうやり直しがきかない。

私たちは人生をあまりに厳格に考えすぎていないか?

自分に規制をひき、他人の目を気にして、起こりもしない未来を思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、構えたり、落ち込んだり ・・・・

もっとリラックスしよう、もっとシンプルに生きよう、たまには馬鹿になったり、無鉄砲な事をして、人生に潤いや活気、情熱や楽しさを取り戻そう。

人生は完璧にはいかない、だからこそ、生きがいがある。

- P.F.ドラッカー 享年95歳 -
    


 「実は筆者の人生もむなしいのです。むなしいのは事実なんだけど、

 むなしがっていてもつまらないから、どうにか工夫をこらして楽しむようにしています。

 ひょっとすると、

 この工夫だけが人生の醍醐味なのかもしれません。

 

  あなたも、もうひと工夫なさいませんか。」

                     

   頼藤和寛Amazon.co.jp: 定本 頼藤和寛の人生応援団: 頼藤 和寛: 本より   


  
  人生なんてむなしい「ひつまぶし」じゃなかった、「ヒマつぶし」。

  どうにか工夫をこらしましょ。 

  ウロウロオロオロいたしましょ。 

  美味しいお酒を呑みましょ。

  良い音楽を聴きましょ。