昔SNSで自分に衝撃を与えた映画作品を10個挙げるというタグに乗っかってタイトルを挙げたことがあります(観た順に挙げてます)。

 

ローマの休日(日本公開1954年)

女王陛下の007(1969年)

野性の証明(1978年)

Wの悲劇(1984年)

Tomorrow明日(1988年)

スモーク(1995年)

セブン(1995年)

ユージュアル・サスペクツ(日本公開1996年)

コールド・フィーバー(1995年)

ペパーミント・キャンディー(日本公開2000年)

 

いろんな意味で衝撃を受けた映画です。忘れられない、深く感動した、考えさせられた、観た時の自分自身にとてもリンクする…などなど。

皆それぞれに10選があると思うのですが、色々と思い返してみるのも面白いものだなと感じました。

と、こんなことを書いていますが、私の映画館デビューは遅く、「皆が観ているだろう映画を知らない」という自覚があり、実は今も映画にはコンプレックスを持っていたりするのです。家が娯楽のために映画館へ行くという環境ではなかったので、例えば「スター・ウォーズ」(1977年)、あるいは「シャイニング」(1980年)など皆が怖い怖いという映画も観ておらず、今こんな作品が流行っているらしい、というテレビや新聞で見知った知識を持っている程度でした。

私の中高生の頃はシネコンやレンタルもまだなかった時代ですから、映画は映画館への時代だったんですよね。そうでなければテレビで放送される映画を観るしかなかったわけです。

 

ちなみに映画館デビューは高校生の時です。角川映画の「メインテーマ」「愛情物語」(1984年)でした。私の世代ならば皆が通った道ではないかと思う角川映画です。角川映画のキャッチーな番宣のCM砲がテレビで大量に流れているのを見てしまうと、映画館で観たいという気持ちになりました。映画館へ行かせる実に上手い作り。

特に当時は中学生でしたが「セーラー服と機関銃」(1981年)の評判が凄くて、友達と観に行きたいと親に言っても許可が出ず、ふてくされたことは今となっては笑える思い出です。高校生になってからやっと映画館へ観に行けたのですが、この「メインテーマ」「愛情物語」の内容よりも自分たちで観に行ったという達成感を得た気分の方を思い出します。しかし、そこまで中高生に思わせる角川映画、恐るべしですw

洋画の映画館デビューは「アンタッチャブル」(日本公開1987年)。

ロードショーを友達と観に行き、テレビでよく観ていた007出演のショーン・コネリーを観られたこと、痛快だけどシリアスな内容が見応えあったこと、そして劇中音楽が繊細で琴線に触れるような甘く哀しいメロディーに惹き付けられたことを覚えています。あと、ロバート・デ・ニーロの洗礼も受けましたw デ・ニーロが演じたアル・カポネが劇中、部下をいきなり歓談中にバットで殴り殺すシーンがあり、一緒に行った友達に私が強く印象に残ったことを話したところ、その友達は「タクシードライバー」(1976年)のデ・ニーロは凄いよと熱く語ってくれました。これで驚いていたらダメダメと言われた感じでした。

カポネ役のために髪の生え際を抜いた、太った、役のためには何のそのみたいな話を聞くとそんな凄い役者なのかと、興味を持ったのは言うまでもありません。

 

※以下、作品についてネタバレしているところがあります。

 

・「ローマの休日」「女王陛下の007

家で家族と一緒に観た映画です。「ローマの休日」は多分人生で初めて観た映画ですね。楽しく微笑ましい展開だったのに、ラストに永遠に別れる二人が悲しくて多分泣いたように記憶しています^^; 大人の今観たらあのラストになるのは分かります。「女王陛下の007」に出てくるジェームズ・ボンド役はショーン・コネリーではなく、この1作にしか出なかったジョージ・レーゼンビー。二代目のボンドです。痛快スリルアクションの007は観て面白かった的な感想で終わることが多いのにこの作品は別。ヒロインと結婚したボンドが新婚旅行中に、逃がしてしまっていた敵に襲撃されてヒロインが死ぬという、ハッピーエンドではなかった物哀しさが忘れられません。異色の007でした。

 

・「野性の証明

これも初見は家で家族と一緒に観た映画です。そして、今もCSで放送されていると観てしまう映画です。完全無欠のヒーロー高倉健さんだと分かっていても、決して荒唐無稽とは思えないハラハラしてしまう展開がリアルであり見事だなと。頼子(薬師丸ひろ子)を背負って、健さんが戦車に向かっていくラストのシーンがやるせないです。何度観てもこの気持ちが変わらないラストシーンだなと思います。

このラストの後、出演者やスタッフのエンドロールが流れるのですが、この映画の音楽を担当している大野雄二さんの曲「悪夢は頼子とともに」(「野性の証明オリジナルサウンドトラック」収載)がかかるんです。ラストの余韻をそのままに、かつ心に波紋を引き起こすようなメロディーになっていて凄く好きです。あと、この曲のタイトルは秀逸だなと思っています。

 

・「Wの悲劇」や「Tomorrow明日」は過去にこのブログで書いています。

 

・「スモーク

90年代に入るとミニシアターと呼ばれる単館上映の映画を知るようになったのですが、この映画や続編の「ブルー・イン・ザ・フェイス」(日本公開1996年)がその形態の映画になります。当時映画好きの同僚がいて、「スモーク」が面白いらしいよと話題になり、ぴあで情報を見てみたら、当時住んでいた関西ではたった2週間の上映でしかなく観られませんでした。

しかし、東京へ行く用事があり、上映館を探したらなんとすでに3か月間ロングラン上映中…(*_*)。びっくりしたのと同時に羨望を抱いたのも事実です。大都会だからこそ出来ることなんだろうなと思いました。

定点観測の話から発展する人との関わりや喪失と再生を描いたちょっと地味めな話ですが、観ているうちになんか寄り添ってもらって励まされているような気持ちになります。清濁併せ呑んだようなタバコ店のマスター役のハーヴェイ・カイテルが渋くて大人で素敵でした。映画館でかかると知ると観たくなる映画です。

 

・「セブン

ブラピ好きの同僚と一緒にロードショーで観た映画です。もう27年も経つんですね。CS放送で放送されると知るとつい観てしまう映画の一つです。

たった7日間という設定。盛大に盛っているわけでもなくシンプルで伏線も回収もお見事。初見時は、虚無感しか残らないラストの後味の悪さに唸ると同時に、犯人の造形に驚きました。凄惨なおぞましい殺人事件の現場を見せられてきて、どんな犯人かと思っていたらまるで修行僧かの如く、濁ったもの(欲望など)を全く感じさせない人間像に意表をつかれました。名前も名無しの権兵衛(ジョン・ドゥ)のままで終わり、何者かさえ分からない。そして、最近よく言われているような偏った正義感の論理だけど筋は通っているようにみえてしまう。狂っているのに現代に巣食う病理をある意味突いているようでなんとも言えない気持ちになりました。今の偏った正義感を先どっていた映画なのかもしれません。

Wikipediaに気になる表記を見つけました。 ミルズ刑事とサマセット刑事の上司を演じたロナルド・リー・アーメイが撮影前のオーディションでジョン・ドゥを演じてみせたらしいのですが、監督やブラッド・ピットモーガン・フリーマンたちに容赦が無さすぎると言われたそうです。容赦ないってどんな感じ?ってすごく気になるんですけどw

ちなみに映画好きの友達と以前セブンの話をしていた時に、こんな話をされました。映画館で観ていたら、ミルズ刑事が最後犯人に対して一生懸命自分を制御しているシーンで笑いが起きたそうです。人間の極限状態を描いているところで笑いが起こるのか、と聞いてちょっとショックでした。

 

・「ユージュアル・サスペクツ

映画館で観た映画ですが、これも「セブン」同様オチが分かっているのに何度も観てしまう映画です。

この映画の妙は見終わった時にどこまでが真実で何が嘘なんだろうと分からなくなってしまうところではないでしょうか。狐につままれた気分になり、また冒頭から観て確かめたくなる、永遠にループしてしまいそうになるwそんな映画です。

元々は、「若草物語」(日本公開1995年)に出演していたガブリエル・バーンを好きになって(詩人っぽい雰囲気が良いなと)観た映画でした。「セブン」の後にこの作品を観たので、またケヴィン・スペイシーが出てるんだと思っていたら、またまたヤラレてしまったというか^^; いかにもという風貌ではないところが彼の持ち味なのでしょうね。以前見返していた時、彼が一瞬薄く笑っていることに気づいたことがあり、演技と演出の上手さに脱帽しました。

 

・「コールド・フィーバー

主演は永瀬正敏さんですが、アイスランド・アメリカの合作映画です。これも単館の映画館で観た映画です。日本人のサラリーマンの青年が旅行中に客死した両親の供養のために冬のアイスランドへ渡り、両親が命を落とした現場へ向かう中で出会う人々に翻弄され、向き合っていくロードムービーです。

ロードムービーモノが好きということもあって、この映画が好きになったのですが、厳寒のアイスランドは風景が全て雪で真っ白で、見るからに寒々としているのです。観ているこちらの体も凍えていきそうな感じになります。でも、その真っ白な風景がこちらの気持ちを段々と浄化していくというか、清められていくように感じて、癒された気分になったのです。主人公は当初淡々とした性格で、両親の事故死にも向き合っているようにはみえませんでした。しかし、車強盗に遭い、途方にくれ、親切な人に出会い、ようやく両親の事故現場に立って弔いを始めた時、哀しみを表現するんですよね。主人公もきっとその時癒されたのだと思いました。

アイスランドは遠いどこかの国のように感じていましたが、この映画で親近感を持ちました。

 

・「ペパーミント・キャンディー

初見はレンタルで借り、観た後3日間ぐらい頭から離れなかった映画です。そういう意味ではとても衝撃的な作品でした。

事業に失敗し、妻に逃げられ、初恋の人も病気で亡くなりそうだと知らされた男が帰りたいと叫んで自死を選ぶ。そこからこの男が過去を回想していく逆再生の作品です。事業が上手くいき浮気もして嫌な人物だった場面、警察官として若い活動家を拷問をしていた場面、新米警官だった男の元を訪れた初恋の人に冷たく接する場面、そして戒厳令下に兵役に就いていた時にある出来事に遭遇してしまった場面、初恋の人と出会い、草花を愛でていた優しい性格だった場面…。男が帰りたかったのはこの一番最後の若かった時の自分なのですね。とんでもなく嫌な人物だと思っていた男は元々は優しくて穏やかな人物だった、一兵士だった男が極限状態の中で遭遇した出来事がその人生に澱のように残り続ける、その結果、選択を少しずつ見誤り(あえてそっちを選んでいるような気もしますが)、最後は抜き差しならない結末を迎えることになる…。人生ってこんなに重く、苦しいものかと思います。

見返すことが少ない映画ですが、数年前に映画館でかかると知ったので観に行きました。やはり胸が詰まりました。でも映画館で観るべき作品と思いますし、好きな映画です。

 

この10個の映画以外にも好きな映画、見返している映画があります。また、これらを挙げた後に観たこの映画をぜひ入れたいというものもあります。例えば「パラサイト」(2019年)とか。プラスして映画15選とか選んでみたいものです。これからも自分のペースで映画を観ていきたいと思います。

このブログでも感想を書いていますが、2時間で必ず解決するサスペンスドラマを観るのが好きです。
1話1話を重ねていった結果カタルシスを味わえる連続ドラマももちろん好きですが、たった2時間で起承転結があり、伏線もあり、風光明媚なシーンもありw、きちんと完結するサスペンスドラマはお得と言いますか、魅力を感じるアイテムです。傑作!と思うものもあれば、うーん今回はイマイチ(ーー;)と思うものもあり、この玉石混交ぶりも楽しめる要素の一つなのですね。
しかし最近は、このいわゆる2時間サスペンス枠がなくなり、期首に大型特番のようにテレビ局が力を入れたドラマ(サスペンスモノもあり)が放送されるようになりました。それらが面白い時もありますが、そんなに力を入れたものじゃなくていいから個人的には毎週いつでもチャンネルを合わせれば2時間サスペンスが観られる方がいいのにな、と思っている今日この頃です。
 
今回書きたい作品は、「女マネージャー金子かおる哀しみの事件簿1」(フジテレビ、2002年)です。「金曜エンタテイメント」という主に2時間サスペンスモノを放送していた枠です。Wikipediaで調べてみるとこの名称で1993年~2006年に放送されていました。意外に古くからあったんだなという印象です。
ザ・ドラマチックナイト」(1987年~1988年)から始まり、「男と女のミステリー」(1988年~1991年)、「金曜ドラマシアター」(1991年~1993年)と枠名が変遷していったみたいです。私が一番古くにフジテレビでサスペンスモノを観た記憶は、土曜日の夜に放送していた「ゴールデンドラマシリーズ」(1975年~1981年)で松本清張原作の「砂の器」(1977年)、「球形の荒野」(1978年)でした。しかし、このシリーズは2時間モノではなくて連続ドラマでした。
つまり、フジテレビは曜日を変えて連続ドラマから2時間サスペンスへとシフトしていったということなんでしょうね。
この1987年から始まった金曜夜の2時間サスペンス枠での作品を、またまたWikipediaで見てみると、実録犯罪史シリーズ松本清張スペシャルを観ていたことが分かりました。ライトで軽めのシリーズ作品や本格的なサスペンス作品など、硬軟色々あったんだなと改めて思いました。
 
この「女マネージャー金子かおる哀しみの事件簿1」は、金曜日の夜たまたまテレビをつけた時に観たドラマでした。タイトルの感じからちょっと軽い印象を受けたのを覚えています。よくある素人探偵が犯人を見つけましたというドラマかな、と。
その日、仕事を家でやらないといけなくて、ちょっとだけドラマを観て仕事をやろうと決めて観始めたらこれがとまらないw 仕事が気になるもののドラマも気になるで、結局もうドラマを観終えてから仕事やる!(笑)という展開になり、晴れてドラマに専念できたのですが意表をつかれた凄い作品でした。今さらながらあの時はドラマを選択して良かったと思っていますw
 
ブレイク寸前のお笑いコンビの芸人を担当している女性マネージャー(久本雅美)は、コンビの一人・半田(生瀬勝久)が恋人殺しの容疑で逮捕されたため、無罪を信じて真犯人を探そうとする。半田はアリバイを主張し、犯行時刻の頃はバーに行ったと言う。しかし、バーテンダーはそんな人物は来ていないと言う。マネージャーが証言者を訪ねると殺されていた。これ以外にも半田が当日夜に出会ったというアリバイを立証できるはずの人物たちが、マネージャーが訪ねる前に誰かに殺されていた。半田が恋人と喧嘩した後にマンションを出ていく時に見たという赤いコートの女性を探し奔走する…。
 
サスペンスのネタ元を以下に書きますのでご容赦ください。
 
今回、この作品タイトルで検索してみると、結構この内容を書いたブログがヒットしました。写真付きだったり、詳しく書いてあるものがあるのでぜひぜひそちらもご覧ください。私はおかげでそうそう!と思い出すことができ、また少し補足させてもらいました(感謝)。なにせ一度しか観ていないので、やはり細かいところは抜けております。
私が仕事よりもこのドラマを取った一番の理由は、バーテンダーが意味ありげにそんな人物は来ていないと証言したところを観たからです。こちらが狐につままれた気もするし、バーテンダーがなんか隠しているようにしか思えない。半田が行ったという会社もない、出会ったという人物に会おうとすると殺されている。ミステリアスでなんともいえないこの妙にワクワクする展開にどうなるのだろうと思ったのです。
当時は、インスパイアされている(もしくはオマージュ)と思われるウィリアム・アイリッシュ幻の女」のことは知らず、このドラマを観た後に多分ネットで調べたように記憶しています。でも、この「行ったはずの場所で誰もその人を観たとは言わない」設定はネタ元を知った後だと気づくことが多いです。例えば相棒のプレシーズンの第1話でもこの設定使われていますね。
あと、ちょっと似た設定だと「知っているはずなのに誰もその人はいなかったと言う」はヒッチコックの映画「バルカン超特急」(1938年)にも出てきます。
 
刑事(夏八木勲)が主人公のマネージャーに親切だったという点が、このドラマでの意外な盲点だったというべきかもしれません。刑事が主人公である探偵などに親切に情報提供するというのは、サスペンスドラマではあるある設定なのですが、でも現実的じゃない部分と感じるところでもあり、私はあまり好きではないです。そんな商売敵?に親切であるはずないだろうと思うのですw このドラマもあるある設定なのかと思っていたら、違いました。
 
そう、真犯人はこの主人公であるマネージャーだったのです。半田のことが好きだったマネージャー。もう若くはないし、半田に女性として見てほしいとかそんなことは思っていなかったけれど、ただ一生懸命尽くして売れさせようとしていた。しかし、半田の恋人に揶揄されてつい殺してしまった。だから、半田がアリバイを主張した人物たちを先回りして殺したのもマネージャー。
赤い服の女は実在せず、確か半田のマンションに行っていたマネージャーの姿がネオン?の加減で赤い服を着ているように映し出されたというオチだったと思います。マネージャーもその姿を自分とは知らずに見ているので、赤い服の女の存在を信じており、半田のアリバイを成立させたくなくて見つけ出そうと躍起になっていたのですね。警察は親切なフリをしながら、マネージャーを怪しいと思っていたのでお笑いコンビのもう一人(板尾創路)に赤い服の女を演じさせ、マネージャーが赤い服の女を殺そうとした現場を押さえて、ジ・エンドでした。
マネージャーは、当初から自分が育ててきた売れないお笑いコンビの芸人が売れることによって離れていってしまうだろうと思っている心細さと切なさを内に秘めており、そこへ好きな半田を巻き込む事件を起こしてしまったことにより、結局半田の容疑を晴らさないことで自分の管轄下に置きたい、潜在的に独り占めしたいと思ったのではないかと解釈しました。タイトル通り主人公には哀しさを感じますが、なかなかと歪んだ愛情っぷりのようにも思います。
しかし、主人公が犯人というオチには、すっかり騙されてしまいました。タイトルも騙しているんですよね。1ということは次はあるのかと思わせているわけで。こういうところもなんとも心憎いですね。
最初から犯人ですよと見せる方法ではなくて、第三者として事件を解決しようとしている人が実は犯人というのは、小説で読むにしてもドラマで観るにしてもインパクトが凄いですね。結局このように忘れられないドラマになってしまうのですから。
 
脚本が蒔田光治さん。「トリック」(テレビ朝日、2000年~2014年)では脚本とプロデュース、「ブラッディ・マンディ」(TBS、2008年~2010年)ではシーズン1のみ脚本、「ケイゾク」(TBS、1999年)では企画協力など有名な方ですね。脚本だったり、企画協力だったり、プロデュースだったり。作品を観ていてこの方の名前を見つけると、おおっと嬉しくなるお一人です。
毎週観ていた「トリック」で名前を知るようになり、「ケイゾク」の再放送を観ていたら蒔田さんが関わっていたのか!と発見したりと気がつくと私が面白いと思うドラマのスタッフ欄には名前が載っている率が高いのです。
いわゆるミステリーモノでは外れがないと思わせてくれる方なんですよね。表現が限られているドラマであっても、その表現ギリギリのところで余すことなく面白さを追求しているように感じています。
でも、この面白さは、蒔田さんが学生時代に所属していた劇団そとばこまちでの座付き作家だったことが関係しているように思うのです。残念ながらその頃のそとばこまちを観ていませんが、今まで私が舞台作品を観てきた中でいえば、一般的に舞台の脚本って2時間サスペンスドラマと同じで約2時間という制約の中できちんと起承転結を考え、伏線を入れ、観客を飽きさせずにラストまで引っ張っていかなければならないわけで、しっかりとした構成力と観客の想像を超えるような展開力がなければ目の前で観ている観客に面白いと思わせたり、あるいは感動なんてさせられないんですよね。きっと蒔田さん作の舞台作品は面白かっただろうなと思います。観たかったですね。
 
ちなみにそとばこまちに所属していた方々は、蒔田さん以外には俳優の生瀬勝久さん、俳優の辰巳琢朗さん、「あまちゃん」ほかドラマをプロデュースするNHKの訓覇圭さん、「チコちゃんに叱られる!」のプロデューサーの小松純也さんなど、今もなおテレビなどで活躍されていて、才能豊かな人たちが集まっていたのだなあと思うことしきりです。
 
ところで「幻の女」というタイトルでドラマ化が何度かされているようです。1971年にまさにウイリアム・アイリッシュ原作のドラマとして放送されたものを観たことがあります。樫山文枝さん、山口崇さん出演。以前、CSで放送されていました。
この「女マネージャー金子かおる哀しみの事件簿1」を観た後だったので、主人公が犯人なのかと思いこんで観ていましたが、これは違いました。 すっかり女マネージャーの作品にしてやられてしまっていたようですw
しかし、まあこの古典名作小説を題材にしてこんなに色々とドラマ化されるのって面白いなと思います。
余談ですが、ウイリアム・アイリッシュ(本名は コーネル・ウールリッチ )の本名で書いた小説「喪服のランデヴー」も、2000年に野沢尚さん脚本で、藤木直人さん、麻生久美子さん出演で連続ドラマ化されているのを観ています。とても見ごたえのあるサスペンスドラマでした。2作ともぜひ原作を読んでみたいと思っています。

やっと念願の「墓場の島」の回を観ることができた「男たちの旅路」(NHK、1976年~82年)。以前、このブログで「車輪の一歩」(第4部、第3話)について書いた時は、BS4Kでの放送の後で私が観ることができる再放送はもっと先かもと思っていただけに、こんなに早くに第1部~第3部が観られてとても嬉しかったです。今回BSでの再放送だったとはいえ、ありがとうNHKと言いたいです。

本放送の後に何話か再放送を観ていますが、今回改めて第1部~第3部をしっかりと観ました。まるで初めてのドラマを観るかのように。世代なんでしょうか、山田太一さんのドラマはついつい構えて観てしまいます。ゆったり気楽に楽しみながら、とはいかないんですよね。セリフがとにかく刺さりまくる。たくさん思い当たることがあり、突きつけられた気がします。今回改めて強く感じました。

 

再見にあたり、色々気がついたことがあります(「車輪の一歩」の投稿と合わせて読んでいただけると幸いです)。

悦子(桃井かおり)はずっと吉岡司令補(鶴田浩二)のことが好きだった、だから「別離」(第3部、第3話)で告白するシーンは全然唐突な話ではなかったということ。小学生だった放映時はやはり伏線とか気づいてないんですよね^^;

吉岡も悦子が自分に好意を持っていることは薄々分かっている節がありました。憧れかな?ぐらいの認識だったような気はしますが。悦子の家族はちょっと複雑みたいで、私が想像するには悦子は父親的な部分を吉岡に求めていたのではないか、と思うのです。「非常階段」(第1部、第1話)で自殺をはかるところを救ってくれた吉岡に対して、言葉遣いで叱られたり、怒られたり、説教されることがちょっと嬉しいんですよね。もちろん鬱陶しい時もあるけれど、自分が信頼するこの人にもっと甘えたい。そのような表情が悦子に見え隠れしていて、切なくなるシーンでもありました。ああ、悦子は寂しいんだなと。本来なら家族に与えられるべき愛情がなく、その愛情を他人に縋るのですから。

悦子が病気で亡くなった時、その枕元で母親の男らしい人間と家族が葬儀屋に値段を負けてくれと頼むシーンがありました。その描写だけで悦子がなぜ孤独に生きてきたのか、なぜ吉岡に縋ったのかが分かるような気がしました。

そして甘えたい、は陽平(水谷豊)も同じだなとと思いました。口先では色々文句も言い、突っかかるけれど、やっぱり吉岡を信頼しているし、かなわないと思っているところもあり一目置いていたのです。甘えられる人間がいるというのはいいものです。

 

そして、今さらながらこの作品はお仕事ドラマだったのだなと分かったこと。

警備員という仕事を通して現代の縮図が見える、という手法はやはり秀逸だなと感じました。特にそう感じたのが「路面電車」(第1部、第2話)でした。悦子は万引き対策にスーパー内で私服で見張りを行うのですが、いつも来る万引き犯(結城美栄子)の万引き行為を見つけ、逃げる犯人を外までも追いかけて捕まえる。しかし、万引き犯の告白を聞いて、警察に突き出すことをためらうシーンです。

この時、万引き犯は切々と自分の家庭の状況を説明するのです。でも、その内容にひどく同情させる要素(例えば夫が蒸発とか、お金を家に入れてくれないとか)はありません。普通のサラリーマンの主婦が、小さい子供を連れていくと欲しがるので姑に預けてスーパーに出かけるけれど、あっという間に何千円というお金を使ってしまう、と語るのです。とてもリアルで身につまされるものでした。

小学生の頃に観ていたはずの内容ですが忘れていました。いや、もう少し歳を重ねていても、なんとなくその語られる状況は頭では理解できるけれど…だったと思います。お金を使えるけれど考えて考えて使うしかない生活の厳しさを知っている人には凄く伝わるものではないかと思いました。それほど静かに語る結城さんの演技が上手くて、引き込まれました。しかし、山田太一さんの描くこの生活のリアルさってなんなんでしょうね(褒めてます)。

話を聞いて身につまされてしまった悦子に吉岡は叱り、結局万引き犯は警察に突き出されました。そう、やはり犯罪は犯罪なのです。悦子たちは吉岡の行為を詰るけれど、吉岡がそのようにダメなものはダメだと言い切るところに大人とはそうあるべきなのかもしれないと感じたように思いました。

 

廃車置場」(第2部、第1話)でのエピソードも考えさせられる内容でした。

鮫島(柴俊夫)が入社の条件に派遣される自分の職場を自分で選びたいと言う。そのことが原因で周囲の空気を乱し、問題になる。でも理由があった。前職で下請けを倒産させる仕事をさせられ、そのことに苦い思い出があったから。この話にもグッときました。感情を押し殺して言われた仕事を粛々と行ってきたのだろうと察する場面だったからです。自分で仕事を選びたい、と言うと自己中心的、わがままだと取られてしまいますが、実はこういう理由もあるのだなと知った気がします。聞いてみなければ分からないことが世の中にはたくさんあるのだと実感しました。

シルバーシート」(第3部、第1話)は、警備員の仕事で関わった老人が亡くなったことを知り、陽平と悦子が老人ホームへ訪ねていくという話ですが、ホームにいる老人たちが訪ねてきてくれた陽平たちをもてなすために、自分たちは水を飲みながら(ホームでは飲酒禁止のため)酒に酔っぱらった演技をしていたという場面がこの回の肝だと思うところです。

昔再放送でこの話を観た時に衝撃を受けたシーンでした。ハッとさせられました。世話を受けている人間たちだから迷惑をかけてはいけない。禁止されていることをきちんと守ろうと努力する。抑制的に、かつ現実を諦めて生きている老人たちは管理する側からするととても大人しくて扱いやすい人間たちです。

でも、老人たちはそうやって自分に言い聞かせているけれど、昔の功績も評価されずに、誰にも敬意を表されずに、ただ「老人」という括りにされてしまっていることへの腹立たしさ、虚しさがあり、電車ジャックをしてしまうのです。

説得に来た吉岡へ「あなたも私たちのような年寄りになったら分かる」という言葉だけを残してドラマが終わるのは、本当に深いと思いました。この心境だけは、私がもっと年を重ねなければ分からないと感じました。

今回観て気づいたのは、この「シルバーシート」は「車輪の一歩」と同じなんですよね。立場が弱く主張しづらい人たちが、世話を受けている人間たちはモノを言ってはいけないのか?と世に問うていたんですね。心が揺さぶられる思いがしました。

 

そして、念願の「墓場の島」(第3部、第2話)。歌手(根津甚八)がマネージャー(高松英郎)に歌の歌詞(祖母を歌った内容を恋人へ)変えられ、その曲が売れたことに対する嫌悪とマネージャーへの反発から、歌う場で突然引退宣言をしようと画策する話でした。当時のニューミュージックと呼ばれる自分で歌詞や曲を作る歌手をイメージしている感じですね。思ったこと、感じたことを言葉に載せて歌を作っているであろう立場の人たちが、歌詞を変えられることは自分を否定されたと思ったことでしょう。もちろん曲を出す限り売れた方がいいでしょうが、だからと言って売れる内容の歌詞に変えていいわけではないと思います。アイデンティティの問題なんですよね。私は学生時代、ニューミュージックの歌手の人たちの歌詞に共感して曲を聞いてきたので、もしあの内容が商業的に変えられていたと知ったとしたら凄くショックだったと思います。

しかし、歌手は歌い出す前に言うかどうか凄く葛藤しながらも、引退宣言をしませんでした。私がもっと若い頃に観た時だったら、この選択をカタルシスを得られないと、落胆したかもしれません。なんだ、結局辞めないのかと思ったかもしれません。

でも、今のこの年齢で観ると、この現実的な一件落着の方がとても意味があるように思えるのです。歌い出すまでに引退宣言をするかどうかをギリギリまで葛藤している、その気持ちに嘘がないことが分かるからです。そして、今はダメでも歌い続けている限り、いつか自分が歌いたい内容で歌える日が来るのではないか、と希望を持てるような気がするのです。継続は力なり、ではありませんが、辞めてしまうよりも、やはり歌い続けていることの方が大事なのだと思います。今回観られて本当に良かったのですが、できればこの回は、昔に観た時と今観た時の感想の比較をしたかったです。

 

ドラマの中の陽平たちが会社の先輩たちと話している姿(談笑したり、苦言を呈されていたり)を見ているうちに、この作品で描かれた時代(70年代後半辺り)は大人たちがきちんと若者に向き合い育てていたことに、ふと気づきました。現代のような派遣というスマートで合理的な方法もなく、完成された人間(仕事ができる人間)が望まれる時代でもありませんでした。今なら無駄と思われる事柄も多かったかもしれません。でも、まあまあ良い時代だったのではないでしょうか。会社という組織の中で、大人と若者たちが互いに相容れないこともありながら、時には歩み寄り、意見を戦わせながら一緒に働いていく。ここに大切なことが潜んでいるような気がしてなりません。ドラマを通して、この50年で今のこの社会が確実に変化しているということを痛切に感じています。

 

初見からほぼ50年が経つドラマなわけですが、小さい頃に一生懸命観たけれど、今回振り返ってみて、大人がさまざまな経験をしてきた中で観た方が身につまされ、時にはセリフが心に刺さり、よりリアルなものとして実感できるドラマだと思いました。やはり大人のドラマなんですよね。それは歴然たる事実なのですが、繰り返し見るうちに経験値の中で得られること、気づくことがあり、そんな風に何度でも楽しめるのが山田さんの作品ではないかと思えるのです。

また10年後、20年後に見返してみたいです。