私が「書く仕事」に就いた原点は、小学校3年生の時。

国語の教科書に載っていた『ごんぎつね』の結末が
悲しくて嫌で、

「そうやっ!嫌やったら自分で作っちゃえばいいんだ!!

という、今から思えば著作権侵害も甚だしいことを
やっちゃったことです。(^_^;)



『ごんぎつね』って、ご存知だと思いますが、
最後、「ごん」は死んじゃうんですよね、
間違って撃たれて。。。ぐすん



それを、撃たれたけれど急所は外れていて、
介抱されたら息を吹き返して、

元気になってからは、村人と山の動物たちの仲を取り持って
みんなで仲良く暮らしましたとさ、めでたしめでたし・・・

って、結末に変えちゃったんです。あせる






教科書の余白に書いた「勝手な作文」を
先生に見せに行くと、

「おー、なかなかよう書けてるやないか。
 皆にも見せたったらどうや?」

の鶴の一声で、皆の前で朗読することになりました。アセアセ


今日も広報ジャーナリスト・堀美和子のブログにお越しくださり、
ありがとうございます。あなたに感謝ですっ!






皆の前で何かを発表するなんて、
小学生にしてみれば一大決心です。(・・;)

特に引っ込み思案だった私にしてみれば、
清水の舞台から飛び降りるのも同じ。汗

   
   (清水の舞台ぃぃぃ。。。)



でも、幸せな結末が書けて嬉しかったので、
恥ずかしながらも一生懸命朗読しました。



するとクラスメイトが口ぐちに

「私もそっちの方が好き!」

「私もごんは死なない方がいい!」

「僕も絶対楽しく暮らす方がいい!」etc.

と言ってくれたんです。

 


     




さあそこからは忘れもしません。
 

 


国語の授業中は、
『ごんぎつね』のお話に対する意見交換・・・といっても
「しーーん・・・」だったのに、

 


   

 

 

結末を変えただけで、

「きっと兵十(ごんを撃った人)はいっぱい謝ったんやで!」

「村の中にはお医者さんもいて、
 『動物を診るのは初めてや』とか言いながら
 診察してくれたんちゃう?」

「秋になったら山の果物とかがたくさん里へ届けられて、
 人間も動物も一緒に秋祭りしたんちゃうかなぁ」

   


等々、子どもの想像力が爆発し、
意見が出るわ出るわ・・・。(笑)




思いがけない授業展開に、先生も思わずニンマリ。拍手



「なんて楽しい国語の時間だったんだろうルンルン

 


   
 

 

私がそう思うなら、他の子も、
「国語って嫌いやったけど、なんかオモロイやん」なんて

言ってくれたり。ニコニコ


その他にも、この意見交換がきっかけで、

日頃あまり口をきかない子とも喋るようになったり、
なんだかクラス全体がイキイキし出して

子供心に不思議な感じがしました。目

 


  



今にして思えば、
子どもって、決まった意見を言え、とか、
こう考えろとかって強要されるのが嫌なんだ、
って思えます。




きっかけさえあれば、
自由に考えてることを喋りたい。

誰にさえぎられることもなければ、幼くても
ドンドン自分の考えを述べたいんですよね。


 

 



そういえば、
作文教育の勉強会「大阪綴方(つづりかた)の会」の
会員になっている元小学校の先生は、

「『主体的な学び』~アクティブラーニング~が
 よく言われているけれど、
 “上辺だけの活発なやり取り”になっていないか」

と警鐘を鳴らしておられます。



自分の目で見て、自分の言葉で考えたことを話す・書く。

それを互いに発表し合い・読み合い、話し合う。

 


  



教師も子供の言葉をフーンと聞くだけでなく、
キチンと聴き、意味づけをして返す。

 


それがない授業だと、たとえ意見交換がされていても
子どもが育たない、


という主旨のことを述べておられました。

その為に綴方=作文が有効なのだと。




下校中に見た野良犬のことでもいい。
好きな給食・嫌いな給食のことでもいい。
道草を食った話でもいい。
なぜ勉強しなきゃならないか、でもいい。

見て、感じて、考えたことを、
擬態語・擬音語もそのまんま表して、
みんなで読み合いっこする。



しゃべろう、より、
聴こう、という態度が育ったクラスは、
学級崩壊にもならないと聞きます。




自分を見つめない人は、
他人のことも想像できません。

 

 



つながりの時代と言われつつ、
実はつながってない今の時代に、

   


本当のつながりを持てる子どもに育てるために、
“自由過ぎる作文の時間”を持つことを
ぜひオススメしたいです。





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