一昨日、大阪市立美術館で開催中の
「フェルメール展」に行ってきました。(^^)
春休みだったからか、
お子さんの姿が多かったです。
小っちゃい時から本物のアートに触れるのはいいな~
と思いました。
フェルメールの作品自体は6点でしたが、
展示会そのものが
「同時代に活躍した画家たち展」みたいな感じで、
“その時代の意識”みたいなものを
感じ取れて良かったです。(^^)v
アートを堪能した後は、
桜に誘われるように隣接する「てんしば」へ。
(「てんしば」にも「フェルメール展」の看板がありました。)
フラフラ歩いてると、ふと一本のしだれ桜に目が留まりました。
それは、
たくさんの方が芝生でお弁当を広げているエリアからは
少し外れた所にひっそりと立っていて・・・・・・。
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そのしだれ桜は、京都の円山公園のような
大きくて豪華で、誰もが「ほぉ~!」と息を飲むような
華やかなものではありませんでした。
むしろ、小さくて、
高さ(樹高)も・・・そうですね、、、
日本女子バレーボール選手の平均身長(約176cm)位でしょうか。
けれど不思議な存在感がありました。
なんでだろう?と近づいていくと、
一枝に、ひとかたまりに、一花ずつ、
色が違う(濃いピンク色の)花が交じってたんです。
それが、花々の中に小さな雪洞を灯したみたいで。。。
普通、同じ木からは同じ色の花が咲くのに不思議ですよね。
不思議な存在感。
・・・なのに、
「気づいてくれる人は気づいてくれたらエエ」
みたいな静かな主張。
その様に見惚れてたら、
石垣に腰かけてお弁当を食べてたおっちゃんが、
「この桜、エエやろ。(^_^)/
この公園で一番好きやねん」
と声をかけてこられました。
「ええ、不思議ですね~。
薄い色の花の中に、濃い色が一つずつ交じってて」
と応じると、おっちゃんはいかにも嬉しそうに、
「そやろそやろっ!(^_^)/
(=わしもそこが好きやねん♪)
そやからいつもここで弁当食べてんねん」と。
「いいですね~。
こんな所で食べると一層おいしくなりますもんね」
「そやそや、なんとも言えんわなぁ~。(・.・*)(._.)」。
暫く桜を見上げ、なんともうれしそうにうなずいて、
おっちゃんはまたご飯を口に頬張り始めました。
人を外見で判断するのは厳に慎まねばなりませんが、
一見して、
風流に桜を愛でる・・・
って感じの方ではありませんでした。
例えれば、こんなおっちゃんが年取った感じ・・・かなぁ。
↓
それでも、箸を止めて桜を見上げていた風情は
まるで滝廉太郎の「花」の歌詞のようで。。。
日本人って桜を前にすると
なぜ皆こんな“風情”になるんだろう?・・・
と考えてた所に、ドンピシャ、
半藤一利さんのこんなコラムが出ました。
昨日の朝日新聞別刷り「歴史探偵おぼえ書き」です。
「花」の歌のもともとには、
『源氏物語』があった、と。
その部分、引用させて頂きますね。
引用ここから
岩波文庫本『源氏物語』の「胡蝶」の巻、
六条院の宴のところ。
回廊をめぐる藤の色のこまやかに、
池に影を映した山吹もいまを盛りに咲いている。
そんな美しい風景のなかで、女房のひとりがうたうのである。
春の日の
うららにさして行く舟は
棹のしづくも花ぞ散りける
引用ここまで
『源氏物語』の成立は12世紀。
そんな昔から、
ひょっとしたらもっと前から、
日本人が桜に抱く何かって変わってなくって、
それは古代であれば貴賤に関係なく、
現代であれば性別年代職業の別なく、
曰く言い難い何かを
私たちに想わせるのかもしれませんね~。
桜に限ったことではありませんが、
特にこの時期、誰もがやさしく風流に、
詩人になれるような気がするのは私だけでしょうか。
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