大河ドラマ『西郷どん』、ご覧になってますか?

 



(鹿児島の西郷隆盛像)
 

 


私は見たり見なかったりですが、^^;

昨日の朝、新聞で「あらすじ」を読みながら、
“当たり前なんだけど不思議な感覚”に陥りました。



今日も広報ジャーナリスト・堀美和子のブログにお越しくださり、
ありがとうございます。あなたに感謝ですっ!

 

 








「あらすじ」を抜粋させてもらいますね。


黄色い線黄色い線黄色い線黄色い線黄色い線黄色い線 「あらすじ」ここから 黄色い線黄色い線黄色い線黄色い線黄色い線黄色い線

 


薩摩に戻った吉之助は、一蔵の求めに応じて京へ。
そんな西郷のうわさ話に花を咲かせる男性たちがいた。

勝海舟と坂本龍馬、岩倉具視だった。

京では、「参与会議」が開かれるが、
慶喜は意見を変え、久光を徹底的に愚弄(ぐろう)して
会議は決裂する。

事態を打開するため、吉之助は慶喜と再会する。

 


黄色い線黄色い線黄色い線黄色い線黄色い線黄色い線 「あらすじ」ここまで 黄色い線黄色い線黄色い線黄色い線黄色い線黄色い線




現代に生き、大河ドラマを楽しむ私たちにとって、
ここに書かれていることは、周知の事実で、

幕末、誰と誰が結び、どこでどういうふうに
歴史が動いていったかは、小学生でさえ粗々知ってます。

 



(新撰組発祥の地跡)


 

 


しかし、、、よく考えると(考えなくても^^;)、
幕末の頃には、LINEもないし、
Google先生に聞けば教えてくれる・・・わけでもない。

また、GPSや空中カメラを積んだドローンもないから、
ある一瞬に、誰がどこにいるかなんてのも分からない。

 

 


サッカーの試合に例えてみれば、

渦中の当事者には全体が見えない。

 


しかし、テレビ中継を見てる私たちには
グラウンド全体が見えている。


 

 

 



あの時代の当事者たち

~勝海舟にしろ、坂本龍馬にしろ、
 桂小五郎にしろ、西郷隆盛にしろ~

も、ちょうど、サッカー選手みたいなものだったのかもしれない。

 





 

 

 

 

 

 

その場その場の状況は、よく分かってる。

でも、全体としてどうなってるのかは見えない。

 

そんな中でなぜ、あのような大変化が起こったのか?

起こせたのか?

 

 

 

 



お互いがお互いをリアルに会って知ること、

手紙という、その人がにじみ出るような“手の仕事”を通して
その人を知ること、行間を計ること、

仲間から直に聞くこと、

顔を合わせて話し合うこと、

時に沈思黙考すること、

そうやって、常に相手を慮って行動する、
そんな一人一人が集まって、

結局、日本がゴロゴロと動いたんじゃないかな、って思った。











幕末には、リアルがあった。
時間があった。
空白の間(ま)もあった
そして何より、生身の人がいた。


 

 


今は、なんでも急いで、とにかくその場で・・・
ってことが、途轍もなく多くなってます。


相手を知るのも、デジタルが幅を利かせる。

 





更に、ガヤガヤした中で決めることを余儀なくされてる。


 

 




スピード感や情報量、正確さでは、
昔と今とでは、雲泥の差どころか、

マリアナ海溝と月くらいの差があり、

 





もはや、マリアナ海溝には戻れないけれど、

 


思考の方法とか手順とか気持ちとかは、
幕末の方が優れていたのかもしれない・・・


なんて、ふと思っちゃたんですよね。σ(^_^;)




番宣のあらすじ読んで、何考えてるんでしょうねぇ・・・全く。ぷぷ






ご訪問ありがとうございました。m(_ _)m
人気ブログランキングの応援をして頂けると嬉しいです。