先週の土曜日から東京基督教大学の学生による夏期伝道チームが教会に来ており、集会で証をしたり、能登のボランティア活動などをしてくださっています。
日曜日は東京基督教大学教員の菊地実先生が説教のご奉仕をしてくださいました。
私はと言えば、キャンプや夏期伝道などはハッスルするタイプなのですが、年齢的なものか、ずっと疲れが抜けず、様々な活動はお任せすることに…。
暑さはこれからが本番なのに、情けない限り。。。
ブログもなかなか書けずにいました。
「人生100年時代」の危険
日々、色んな事を考えながら記事にしたいと思っていたことの中に「人生100年時代」という言葉は危険ということについて。
色々なところで「人生100年時代」と言われていますが、私は「本当にそれでいいだろうか?」と思っています。
なぜなら、みんながみんな100年生きるとは限らないのに、まるで「私も100年生きられる」と思ってしまうからです。
確かに医療の発展により寿命は延びていると思いますが、寿命と健康寿命の差があること、現在、100歳を超えている方々は、戦争を体験し、不便な生活の中で体力が現代の私たちとは違うこと等、考慮しなければなりません。
現在100歳前後の方は、沢山歩いているはずなので心臓が強いのでは?と思っています。
毎週91歳の女性を訪問している際、我が家は新聞を取っていないので、時々、新聞を見せていただいています。
先日、「お悔やみ欄」を見てみると、100歳ぴったりだった方が1名、その他は大体80代か90代の方のお名前が掲載されていました。
現代の私たちは長く生きることが可能となり、特にエアコンの普及は夏の厳しい暑さをしのぐことができ、寿命が延びていることに大きく貢献しているようです。
けれども完全に「100年生きられるつもり」になってしまってよいものだろうか?と思うのです。
人生のリミットの設定は、終活など、その為の備えの仕方を左右します。
聖書の言葉
「・・・私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」(新改訳聖書 詩篇90篇9節~10節)
「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90篇12節)
詩篇90篇は「神の人モーセの祈り」という表題がついており、モーセは出エジプトの時代ですから約3500年前の人物です。
最近出てきた「人生100年時代」という言葉よりも、私たちは聖書の言葉に聞くべきではないでしょうか。
「人生80年」と考えておいて100歳まで生きられたら恵みですし、そのほうが「儲けものの『おまけの人生』」と思い、大切に生きるかもしれません。
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