私たちの教会では水曜午前が聖書と祈りの会です。

 

祈るとき、「こんなことを祈ってもいいのかな、と思うことがある」と一人の婦人がおっしゃいました。

 

「こんなことを祈ってはいけないかな」と思うことがあるそうです。

 

 

 

 

「イスラエルの神に」

 

ヤベツが祈った対象は「イスラエルの神に」でした。

 

イスラエルとは、国や民族のことを表す場合がありますが、アブラハム、イサク、ヤコブ、出エジプトなど、それまでずっとたどってきた歴史の中に働かれた神、歴史を動かしてきた神、という意識がありそうです。

 

もともとは、アブラハムの子、イサクの子、「ヤコブ」は「押しのける者」という意味を持っていましたが、「イスラエル」と神により変えられました。

 

ヤコブもまたヤベツと同じように「私を祝福して下さらなければ、あなたを去らせません」(創世記32章26節)と言い、祝福を受けることへの執着心が強い人でした。

 

「ヤベツの祈り」という本がアメリカで発行され、日本でも紹介されたとき、全ての人が評価したわけではなく、「ご利益宗教みたいな祈りだ」と賛否両論あったようです。

 

しかし貪欲で肉的なヤコブにしろ、祝福をストレートに祈ったヤベツにしろ、神の守りと祝福があり、祈りが聞かれるという結果となりました。

 

祈りが聞かれたという事は、多少あつかましく思えるような祈りであっても「神の御心にかなっていた」ということです。

 

 

詩篇にこのような言葉があります。

 

「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」詩篇81篇10節

 

 

 

 

 

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