9月に入り、だいぶ涼しくなってきました。
毎日いろんな人と会い、最近ブログを書く時間を取るのが難しくなっている状況ですが、また書いていきたいと願っています。
コメント返信までは、まだしばらくできそうもないのですが、読ませていただき感謝しています。
今日は前回の記事の続きです。
前回の記事 十戒・第1戒①「聖書が教える神とは?」
なぜ日本でも世界でも真の神以外の神々が祭られているのでしょうか?
「勉強の神様」として菅原道真や太陽、月、その他、様々なものが「神」として拝まれています。
ローマ人への手紙1章によると、人間が神以外のものを勝手に拝みだしたことが書かれています。
「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに・・・代えてしまった」と書かれています。
十戒の第一戒の重要性
一つ目のボタンを掛け違えると、あとのボタンが全部食い違ってしまうように、十戒の「第一戒」を破ることで人生の全部が狂ってしまう事になります。
人間の作った神々というのは、人間が自分の都合の良いように自分の欲望を満足させるために作った神々です。
(参照;ピリピ人への手紙3章19節・・・「彼らの神は彼らの欲望・・・。」)
その神々を拝むことで、欲望や罪の奴隷となってしまいます。
唯一真の神だけを礼拝することは、非寛容、排他的というものではないというお話は、前回の記事に書きました。
聖書が教える神は、罪の奴隷状態から私たちを救ってくださる唯一まことの神です。
神の愛と救いは、独り子であるイエス・キリストの十字架の犠牲を通して表わされました。
イエスの復活後、弟子ペテロへ「あなたはわたしを愛しますか。」と問われました。
第一戒を通して、私たちにも同じように問われ、語られているのではないでしょうか?
「わたしはあなたを罪と滅びの中から救ったあなたの神、主である。命を捨てて、あなたを愛する神である。だから、あなたは、わたしだけを本当の神、救いの神として歩んでほしい。わたしだけを神として愛してほしい・・・。」
律法には愛があふれている
十戒をはじめ、「律法」は「~してはならない」など、クリスチャンでも「嫌なものだ」と感じ、敬遠しやすいです。
でも「律法」と「愛」は別物のように見えて、実は「律法には愛があふれている」と私は思います。
今日の記事で取り上げた十戒の第一戒も、「わたしだけを神として愛してほしい」という、私たちに対して「ねたむほどの愛」が表れているのです。
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