ルカの福音書16章の中にイエス様が語られた「ラザロと金持ち」の話が出てきます。(ルカの福音書16章19~31節)

 

「金持ちとラザロ」と呼ぶ人もいて、教会学校でも子供たちが聞くような有名な聖書の話です。

 

この話はイエス様がたとえで話されたのか、実際の出来事として話されたのか、何の解説もないまま始まっています。

 

「金の好きなパリサイ人たち」に向かって話されたお話の流れの中に出ています。

 

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「ラザロと金持ち」

 

毎日贅沢に遊び暮らしていた金持ちは、死んで苦しみの場所に移り、全身病いで冒され、貧しかったラザロは、死んで慰めを受ける場所に行きました。

 

イエス様が話されたこの話は、何を教えているのでしょうか?

 

生前、贅沢に暮らし、貧しいものを顧みなかった人は地獄へ行くのだ、という貧しい人に施しをすることを奨励するお話?

 

そうではありません。

 

この話は、金好きで自分を正しいとするパリサイ人へ語られたお話です。

 

 

なぜ金持ちはハデスと呼ばれる苦しみの場所へ移され、ラザロは天国へ移されたのか?

 

新改訳聖書で「ハデス」と訳されている言葉は、口語訳聖書では「黄泉(よみ)」、新共同訳聖書では「陰府(よみ)」と訳されています。

 

類語であるギリシャ語の「ゲヘンナ」は地獄(ゲヘナ)と訳されることが多いそうです。

 

この苦しみの場所で叫ぶ金持ちの言葉に大切なポイントがあります。

 

それは「悔い改め」です。

 

「悔い改め」とは、向きを変えて神に立ち返ること、神の恵みにより頼んで生きることです。

 

金持ちは、まったくラザロに対して施しをしなかったわけではなかったかもしれませんが、「施し」が問題なのではなく、自分の性格や豊かさに満足して「悔い改めなかった」ことがポイントとなっています。

 

一方「ラザロ」の名前は「神は助けたもう」という意味で、神により頼んで生きていたようです。

 

このお話で「金持ちとラザロ」の対比は、「豊かさと貧しさ」ではなく、「神に頼らない者」と「神に頼る者」の対比です。

 

金持ちの拠り所は、神ご自身ではなく、お金、富、財産だったようです。


この「金持ち」は誰を指すのか?

 

「金の好きな(執着する)パリサイ人たち」です。

 

イエス様は「あなたがたは、自分を正しいとする者です。」と言われました。

 

「今の豊かさは、私がまじめに働いたから。」「この富は私が築き上げたもの。」という意識があったのかもしれません。

 

本当は、全てのものは神からの恵みであり、与えられているものは神に感謝するべきです。

 


私たちは神の前にどのような者であるか?

 

自分の豊かさ、自分の行いに自己満足して罪を悔い改めようとしない者なのか?

 

ラザロのように神によりすがらなければ生きていけないと自覚した者であるのか?

 

「金持ちとラザロ」の話は、自分自身を顧み、探るためのお話です。

 

 

 

 

 

 

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