ダッラーバコ「コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)」ニ長調 作品5ー6 | クラシックばっか 時空間

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今日 7月12日(月)は、ダッラーバコの誕生日です。


■コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)」 ニ長調 作品5-6
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https://www.youtube.com/watch?v=ZObmq9WdQ84
■210712 ーーーーーーーーーーーーーーーー


エヴァリスト・フェリーチェ・ダッラーバコ(1675年7月12日 ヴェローナ - 1742年7月12日 ミュンヘン)は、イタリアの後期バロック音楽のヴァイオリニストであり、作曲家です。

1675年の7月12日にイタリアのヴェネト州西部にあるヴェローナ県の県都であるヴェローナに生まれました。

 
イタリア盛期バロック音楽の作曲家でヴァイオリニストのジュゼッペ・トレッリ(1658~1709)にヴァイオリンとチェロを師事し、1696年からモデナの宮廷音楽家を経て、1704年にチェロ奏者としてミュンヘンのバイエルン選帝侯の宮廷室内楽団に加わります。

 

夏の日差しを感じさせる一日となりました。プリンセス ダイアナ

 


スペイン王位継承戦争にバイエルン公国が敗れたため、1704~15年までバイエルン選帝侯マクシミリアンⅡ世エマヌエルに随行し、ブリュッセルに、次いでモンス、そして1709年からコンピエーニュに亡命のため居住地を転々とします。

他の楽団員もこの宮廷の逃避行に同行しました。(息子のヨゼフ・ダッラーバコは、1710年にブリュッセルで生まれていて、後にボンの宮廷楽師になりました。)
しかし、各地を転々としていたことは、その間にフランス音楽の様式になじむ機会を得られることが出来、ダッラーバコにとっては幸運だったと言えるでしょう。

 

 

ガーベラ フェスティバル

 

 

マクシミリアンⅡ世エマヌエルのミュンヘン帰還にともない、ダッラーバコもミュンヘン宮廷に復帰し、その後、1740年まで宮廷楽長と宮廷顧問官に就任しています。宮廷顧問官の地位は、当時の音楽家には滅多にない名誉なことでした。

1726年に新しい君主カール・アルブレヒト公に代わり、ダッラーバコの影響力が次第に弱くなったために1740年に恩給を得て引退しました。

ダッラーバコの初期作品はアルカンジェロ・コレッリ(1653~1713)の作曲様式に従っていましたが、後にフランス音楽の影響からギャラント様式(18世紀バロック時代の荘重で力強く、精緻な様式に取って代わったロココ時代の軽快で優雅な様式)を取り入れました。

ゼラニウムの苗 少しずつ育っています。

 


彼の音楽作品は、全6巻の曲集(作品1~作品6)にまとめられており、これらは1708~35年の間に出版されました。以下がその作品目録です。

・作品1: 室内ソナタ集(全12曲)
    (ヴァイオリンとチェロと通奏低音のためのトリオ・ソナタ)
・作品2: 4声のための教会協奏曲(全12曲)
・作品3: 3声のための教会ソナタと室内ソナタ(全12曲)
・作品4: 室内ソナタ集(全12曲)(ヴァイオリンとチェロのためのソナタ)
・作品5: 協奏曲集(いくつかの楽器のための6つの協奏曲)
・作品6: ヴァイオリン協奏曲集(いくつかの楽器のための12の協奏曲)

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げん地方は、トカゲより(胴体の一部がブルーに輝いた)カナヘビの方を多く見かけます。

 

インスタグラムにあげてしまいました。カナヘビさんの写真がありませんでした。代わりにガーベラ「ガルビネネア スウィートグロウ」

 

 

 


人生 いつ どこで 何が大きく変わるか分かりませんね。
逆境を好機と捉える柔軟な気持ちを大切にしたいものです。
あの時があったからこそ、今があるのかもしれません。


ダッラーバコ