こんな悲観的な憶測はしたくないですが、過去から遡って考えてもこうなりそうです・・・
【10年後を担う人たちに課題】
確かに日本には素晴らしい技術や精神性などがありますが、良い道具があっても使う人次第です。
10年後には、日本は今の20代の方たちが30代になっているわけで、言わば日本の主労働力になっています。
そして、彼らが次の世代を生み、育ててゆくわけですが、これが大問題なのです。
今の子たち、10代、20代の子たちは、ご存じのとおり
・失敗を恐れる
・怪我をしたことが無い
・安全第一
・感情的で不確実性の高いチャレンジは避ける
・無難
・承認欲求が強い
など、精神的側面において、非常にナーバスと言えます。
これでは、今以上にイノベーションは起きないですね。
それどころか、他国との比較においては、イノベーションが起こる他国と、ない日本。
経済的にも、もしかしたら軍事的にも侵略されてしまうのでしょう。
このように育った人間は、当然ながら自身の子にもそのように教育します。
そう、負のスパイラルの始まりです。
この負のスパイラルは実は80年代から90年代にはじまりますが、その前に、この原因は何でしょう?
【原因は母親と父親のパワーバランス】
子育てにおいて、母親と父親の関係性は、ブレーキとアクセルです。
父親はアクセル、母親はブレーキの役割。
例えば、公園で滑り台をするとして、
父親「遊んで来い」
母親「危ないからほどほどに」
と言うパターンが80年代まで。それがだんだん、母の権力が強くなり、
「危ないので安全なもので遊びなさい」になりました。
このような、母親の権力強化は安全性重視を肥大化させてしまい、皮肉な言い方をすればマザコン製造機となり、
「言う事を聞く良い子」が作られます。
そもそも論で、父親と母親の潜在的な教育論というのは真っ向から対立します。
父親の方が感傷的で、非論理的、精神論的です。
何かしらの理屈もなく、勢いで言ってるだけで、非論理的な事が多いのです。
その一方で、母親は、論理的です。
例えば、先の例でも公園の滑り台の危険性については論理的に説明を行えます。
それを父親が教育のための論理を展開させたとしても、母親に「じゃあ、なんかあったら責任とれるの?」と、言われてしまえばそれまでです。
ここで、気づいたでしょうか?母親の「じゃあ、なんかあったら責任とれるの?」は、
現代社会、会社でよく聞く言葉ではないでしょうか?
このように、母親の教育論が既に日本社会を独占してしまい、父親の教育論(論理的ではないので、教育方法と言うべきでしょう)は、消えてしまっています。
【いつから始まったのか?】
事の始まりは、父親の権力の失墜です。
80年代~90年代にかけて、父親は軽んじらるようになりました。
いくつか原因があります。
・高度成長期におけるただの労働力という存在
・「旦那元気で留守がいい」
・バブル崩壊におけるリストラによろ存在性
・時代遅れ感
これらが、父親の権力失墜へのスタートになり、それにプラスして女性の社会進出です。
本来、これらの男女の社会における地位の平等性は、教育とは分離されるべきでした。
教育は、教育でのあるべき姿の教育論として、存在するべきだったのに、男女の平等性と父親の教育論、母親の教育論が混在していたのが問題だったと言えます。
その後は、知っての通り母親主体の教育になりました。
【今後どうしてゆくべきか?】
するべき事は明確なのですが、そもそもそれは実行されないと断言できます。
一応、書きますと、
・教育、しつけというものを一時の安全性などだけで語らない
(例、ヨーロッパの幼稚園などではあえてカッターで怪我をさせて、何が痛い、何が怪我をするのかを教育するなど)
・あるべき教育論を社会に浸透させる
などです。
実行されない理由は、先に書いた通りもはや母親の教育論が社会に浸透しすぎており、そのような教育論を議論する人たちには理解できない状況に陥っているのと、そのような教育論を展開する人は、その議論の場に存在しないということです。
会社の採用で例えると、
採用者の方向や意思、理想に沿った人しか採用しないですし、それ以外が仮に入っても辞めてしまいます。
同じことが既に社会全体におきており、安全重視の母親教育論者は、似たタイプしか採用しないか、あるいは反対意見の人、例えば、父親の教育論が正解という人は、もうこの社会やその議論の場から去っているのです。
このように社会がある特定の理論や思想、傾向に偏って、その社会の構成員が大多数を占めた時、その社会は急激もしくはとてもゆっくりと滅んで行く例は、歴史上にたくさんありました。急激パターンは急激に滅びましたが、ゆっくりパターンは、ゆっくりと滅んで行きました。
そして、ゆっくりパターンの時、その国は再起不能である例しかないのも歴史は語っています。