さて、ボリショイも終わったし一息ついたところで私の作品の紹介です。今年も半年が終わろうとしているのに作品紹介は今回が今年に入ってまだ2回目です。このブログは本来はここで作品を紹介して、あわよくば買ってもらおうと思って始めたのに、もうそんなのはどっか行ってしまいましたね。

でもみなさんボリショイでいい気分になってると思うんで、そんなときがチャンスです。

 

この作品は出してすぐ売れました。石はルチルクウォーツですがオニキスで裏打ちされているのでルチルがきれいに見えます。一応オーバルカボッションなんですがカットが雑でシンメトリーじゃなかったので、ペンダント自体もアシンメトリーなデザインにしました。特徴は石を留める爪がペンダントの表面と一体になって連続している点です。のこぎりで形を切り抜いたあとハンマーとタガネで持ち上げて、完成した後意志をセットしてまたタガネで戻すと言うやり方です。あと表面はテクスチャーをつけていぶしました。

 

ちょっとだけアールデコを意識して作りました。石はかすかにキャッツアイ効果のあるブラウンクウォーツです。御徒町を歩いていたらウィンドウ越しに見つけて即買いしました。得体の知れない魅力のある石です。デザイン的には放射状の三角形のパターンが特徴的ですが、これは2段になっていて下の段が少し離れています。見る角度によって見え具合が変わります。

これも軽くいぶして、その後磨いて少し落としました。

 

前回の三角形のパターンが気に入ってまた使いました。今回はアールデコの建物のイメージです。ちょっとスチームパンクっぽい感じも狙っていたので中央の円筒形のドームは機械の一部のようです。石はブラウンクォーツですがコンケーブカットなので放射状のきらめきが見えます。緑の石はグリーンメノウのビーズです。これもいぶした後磨いてます。いぶしは使ってるうちにこすれて落ちるものなので、こうして最初から落ちるところは落としておくと、自然のいぶしとあいまっていつまでも最初の状態に近い状態を保てます。(使わないと真っ黒になります)

 

これが最新作です。石はルチルクォーツですが今度はブラックパールの真珠母貝で裏打ちされています。なのでクウォーツを通して干渉色が見えます。デザインはまた三角形のパターンを使いましたが今回はちょっとアグレッシブにスパイキーな感じにしました。ゴスっぽい服にも合うかもしれません。この写真では石が干渉色の逆光になってるので分かりづらいですが、ルチルの金色も実はきれいなんです。

 

もしご興味があればこちらにもお越しください。

6月15日、東京文化会館。

行ってきました。パリの炎を全幕で見るのは初めてです。あまり見る機会はなさそうだし、ボリショイだし、見ておいて損はないだろうと思ってました。

白鳥とかジゼルとかあと、ロミジュリとかはいろんなカンパニーのいろんなバージョンを見てるんで、今自分が見ているものが相対的にどのあたりに位置づけられるのか分かりますが、パリの炎は比較するものがありません。だからどう受け止めていいのか判断に苦しむところがありました。

 

なにしろ振り付けがラトマンスキーです。こいつは(もう、こいつ呼ばわりです)シンデレラの前科があります。

第一幕の前半を見たあたりで、これは狙いなのか?狙った上でのことなのか?と悩みました。全体的に大振りで大味でせわしないパの連続。ダンサーは一生懸命踊ってるのは分かりましたが、いきなりなじめませんでした。

更に宮廷シーンに入っても何かテンポが同じと言うか、メヌエットなのにせわしない。曲のせいかな?いや、やっぱり振り付けのせいだろ、と自問自答です。本来なら革命と言う時代背景を浮き彫りにするのなら、民衆の側に対して過剰なまでに豪華で優雅な宮廷を描写しなければ革命の描写が生きてこないと思います。なんか優雅と言う感じではなかったなぁ。せめてもの救いはディベルティスマンの踊りにいくつか見ごたえのあるものがあったことぐらいです。

 

革命はストーリーの背景ですから、物語の核として「恋人の物語」が出てくるのは当然でしょう。バレエですから。でもなぜ二組?私としてはアデリーヌとジェロームの話で十分じゃないかと思うんですが、配役表の順位を見るとジャンヌとフィリップの方が主人公のようです。この辺が腑に落ちないところです。

今度作り直す機会があったら振り付けはできないけど、ストーリー構成は俺にやらせろ、と言いたいです。

 

そうは言っても踊りに関してはいいところもありました。アデリーヌ役のアナ・トラザシヴィリが良かったなぁ。手足が長くて身長もあって踊りもたおやかな踊りでした。第二幕のはじめの方にドラムのリズムに合わせて主要キャストがかなりガチガチの硬い踊りを踊るところがあったんですが、この人が踊ると他の人に比べてしなやかに見えます。ジェロームとのPDDも大変きれいでした。彼女はジゼルでも白鳥でも脇役ながらかなり目立ってましたよね。名前覚えておきます。

最後の見せ場とも言うGPDDも大変良かったです。フィリップ役のイワン・ワシーリエフはあまり主役をやるような体型ではなかったんですが(失礼!)やる時はやるんだというところを見せてくれました。

 

そして最後のシーン。群集が武器を手に大きな影を背景にして客席に向かって迫ってくるシーンは、革命の持つ暴力性やその後に続く暗黒政治を思わせる余韻たっぷりのものでした。

 

今日はスタンディング・オベージョンはどうしようか迷いましたが、最後のGPDDが良かったのと、トラザシヴィリが気に入ったのでこの3人に向けてと、あとボリショイの人たちに気持ちよく帰ってもらってまた日本に来てもらえるようにという意味でスタオベしました。

次回2020年に来るらしいです。

 

P.S.

結局踊りでよかったと思ったところはワイノーネンの振り付けを残したところでしたね。ラトマンスキー、だいじょうぶなのか?

先日見たボリショイの白鳥が頭に焼き付いています。

本来バレエは踊りを楽しむものなんでしょうが、私はなぜか演出やストーリーに意味を見出さずにはいられない性分のようです。以下、ちょっと独りよがり的な文章になりますがご容赦ください。

 

で、今回のグリゴロービッチ版ですが、私の記憶ではオデットが自分の身の上と魔法を解く鍵を王子に説明するマイムがなかったように思います。もともとグリゴロービッチはマイムは極力排して踊りで表現すると言う考えだそうですから、踊りの中にそれに該当するものがあったのかもしれません。あるいは私がザハロワに見とれて見逃したか。しかし、

1.パーティーシーンから連続的に心象世界に入っていくのは時間的な経過はなく、パーティーという現実と、その時の王子の内面を平行して描いたのではないか?

2.もしそうなら、オデットは白鳥に変えられた姫ではなく、王子の内面の何かを表しているのではないか?

3.もともとソ連時代はハッピーエンドだったものが本来グリゴロービッチが考えていたエンディングに戻されたとどこかで読んだが、アンハッピーエンドでもふたりがあの世で結ばれるのではなく、王子が一人残されるのはどういうことか?

これらのことを考え合わせると、私にはこの白鳥の湖は王子のモラトリアム期からの成長をグリゴロービッチなりに描いているように見えました。

 

ちょっと例を挙げると、今の皇太子徳仁親王が中等部の頃だったと思いますが授業で「私は~になりたい」と言う例文を英作文することがあったそうです。クラスのほかの人は各自自分がなりたいものを挿入して答えましたが、皇太子は一人「私は天皇になります」と答えたそうです。彼はこの年にしてすでに自分の将来に対し、ある種の覚悟があったと思われます。

彼は特殊な立場ですが、例えば親が同族会社の社長で次期社長は自分と言う人もいるでしょう。あるいはもっと一般的な例で言えば、俳優の平泉成さんがある番組で言ってましたが、若いころはこんな芝居がしたいとかこんな仕事はしたくないとか言う気持ちがあったが、結婚して子供ができると子供にミルクを買うためにどんな仕事でも受けた、とおっしゃってました。こう言うことは一般的に誰にでもあることだと思います。

 

青年期はいろいろな可能性の中に生きることができて、自分のアイデンティティーを決定することが猶予されています。しかし大人になると、特に結婚を契機にあるひとつの枠に自分をはめて、その他全ての可能性や夢は(あえて言うなら)断念しなくてはいけません。

そういう立場でこのバレエを見ると、オデットは「シッダールタ」でオーレリ・デュポンが「さとり」の象徴であったように、王子があきらめなくてはいけない全ての可能性の象徴だったのかもしれません。それは達成されることのない夢であるがゆえに限りなく美しく、一抹の悲しさを合わせ持っています。そう考えれば、オデットとは別れるしかなく、悲劇で終わるしかありません。また王子が一人で取り残されるのは必然ということになります。そしてロットバルトが運命の化身とどこかで言われていたことが、その通りのものだと納得できます。

 

このバレエがなぜか心に残るのは、もちろん踊りもすばらしかったし舞台美術も美しかったですが、誰もが経験する青春の一時期を感じさせるからかもしれません。