なぜ、日本人は無用に本音と建前を使い分けるのだろうか?
勿論、様々な理由から、建前を必要と
せざるを得ない事象は存在する。残念ながら国の行う政治的課題などは往々にして、本質とはかけ離れた建前をもとに取り組まざるを得なかったりする。
これらは当然ながら少しずつは改善させるべきだが、限界値として一定のラインが存在するため、それを超えてまで本音で取り組むことはできないだろう。そもそも、人間という、それぞれ自分勝手な感情をもつ生命体の社会に、そこまで規律のある自由は期待できない。
逆に言えば、この社会を成り立たせ、他人と共存していくためには、ある種の縛りや、規定が必要不可欠といえる。
事実、大多数の日本人が社会の枠組みの中で、自分に何らかの首輪が巻かれていることを意識して生活しているだろう。親や恋人、そして、教師や法律などにより、繋がれた鎖、また、彼らに気に入られようとして自分で巻いた首輪など、それは様々であろう。
しかし、問題は、その「程度」である。はたして、その鎖の本数や強さは適切だろうか?
私は野放図に鎖を無視する輩がいる一方で、過剰な縛りが横行しているように思えてならない。そしてそれこそが危険因子だと思う。
例えば、自分にはめられた首輪の意味が分からぬまま、その規定に従っているような者である。親しい友人、同僚の前でも、鎖を意識して、本音を言えない。抗議したくても、できない。怒りたくても怒れない。或いは、自分を取り巻く身近なことにしか、興味がなく、それ以外は何も考えない、というか知りたくない、未来などどうなってもいい、などという思考回路だ。
自分で考えるより楽だからとか、取り外すのは面倒だから、と思って、なんとなく放置しながらも、結局心には鬱憤だけが溜まっていく。
結局のところ、皆が、丸く収めよう、表面上うまく行かせよう、と思いながら頼っている、一見、共有しているかのように見えるその無難な鎖は、その実、皆に建前という名の苦しみを与えているに過ぎないのではないか?
しかも、つらいのは、今、なんとかなっているからと言って、それが続くとは限らないことだ。その鎖はいつか、錆び付いてしまう。それは歴史が示している。
完全に錆び付き、皆で暴発する前に、不要な鎖を外し、個々人が少しずつ自分の独自性を見出し、他人の独自性を認める必要がある。
ただ、それだけのことだ。それだけで、随分と生活しやすくなるだろう。
最後に…
幸福度調査において日本は低迷を続ける。それには、皆の隠したい本音が滲み出ている気がしてならない。