小説を書いていた。
応募した。
終わらせるのが難しかった。

初稿から始まるファイルがたくさん残って、最終稿にたどり着き、一旦、推敲を終えた。
数日寝かせて、改めて、読んで、最終稿③まで再び推敲を重ねて、気付いた。

推敲が終わらない。

オリジナル曲を作って録音していた当時も感じたことだが、創るということは、創り終えるということでもあり、これが難しい。
完成だと自分で決定することは、大仰に言うと、可能性の否定なのだと思う。

未完成のときは、あれも出来る、こういう風にも変えられる、増やせる、減らせられる・・・。自由で可能性に満ちている。
終止符を打つ作業は、この可能性を全て否定して、これしかないと、たった一つに決めてしまう、創ることが好きなものにとっては、寂しい瞬間でもある。

最初は、なかなかいいぞ、などと思っても、必ず途中で、大したことがないと落胆するものである。
そこからもう一度、納得のいくものに持って行く過程が、楽しい。そういう納得を探すのが創造だと思う。

とは言うものの、、着想や発想や文体や語彙や知識、知恵など、先人のあまたある創造を想起するにつけ、あらゆる点で自らの卑小を知る、苦しい時でもある。
敬愛する開高大兄も、「トルコの諺に、全て本に書かれている、という様なものがあった」とエッセイで自らを皮肉交じりに冷笑されている。
かの知の巨人にしてそうなのだから、凡人の埋没ぶりについては、今更語るのもはばかられよう。

それでも、始めたもの終わらせるのは、自分が自分と交わした約束を果たすかどうかという自分との闘いのようなもので、「終わらせた」という自信だけは欲しいと願う。
だから、終りが見えると嬉しいし、充実を感じることができる。

入賞したいとか、せめて下読みを突破して一次審査だけは、とか、最終審査には、とか、書いた後の評価については、途中からどうでもよくなった。
終りが見えたからこそ、出来るだけいいものをと欲し、こんなものでは駄目だと悲観し、終わらせたくないと寂しがり、終わらせたいと焦る。
結局、全過程を通して、自分と向き合うことに他ならなかった。

規定通りのものになっているかどうか確かめ、誤字脱字だけを探すためだけに、もう一度音読して、原稿を綴じ、封筒を閉じ、先日、投函した。


数カ月を費やし、書き終えた満足感だけを得た。