いわゆる、「ネタばれ」の内容となっております。映画を観る予定の方は、以下を読まれませぬようお願いいたします。


 名伯楽、イングマール・ベイルマン監督、名優イングリット・バーグマン主演の「秋のソナタ」を観賞した。
 見事な映画だった。テネシーウィリアムズの傑作「ガラスの動物園」に様々通低していると感じたが、いたずらに長くなるので、ここでは触れない。
 映画は娘による母の過去の言動に対する糾弾がほとんどを占めた。観衆は過去をめぐる母子の対峙を観る。
 遡上に載せた過去の様々な出来事を、娘の目線と立場から光を当て直し、共通の認識にしていく。母は反論し反攻を試みるが、ことどとくその論理はほころびる。
 娘は、人格を殺されそうになったのだと言わんばかりに、母に、今度はその人格を殺さんばかりの勢いで、一つ一つ断罪を突きつけていく。
 疲れ果て、古傷の背中をかばうため床に寝ころぶ母の姿が雄弁である。映画を観ているということ忘れさせられた。その部屋の片隅で傍観しているかのようで、応酬する科白が心に突き刺さった。

 愛人を亡くした母を自宅に招待したのは娘である。その娘は、何故糾弾をやめられなかったのかがわからない。心に空いてしまっている洞穴に、何を埋めようとしたのか。娘は考え続ける。
 やがて、心優しい夫と、かつて母が棄てるように入院させた病院から引き取った難病の姉が、晩ご飯を待っているからもう少し生きてみようと、ぼんやり決意する。
 ここに至り、娘が常に死の誘惑と闘っていたことが知れる。彼女が背負わされた苦悩の深さを担保されるがごとくに、知る。
 
 一方、ピアニストの母は公演予定地へと逃走する。その列車の優雅な旅路での屈託のなさに、変な表現だが、喝采した。
 わからないのだ。わかろうとしないし、わかりたくないし、わかるわけにはいかないし、わかってはいけない、のだ。臆面もなく難病の長女について「早く死ぬほうが幸せだ」と言い放つ。不変的不毛。この本質を垣間見せられ続けてきたからこそ、次女は死を誘惑として夢想するのかもしれない。

 ゴヤが、その晩年に、隠とんする家の食堂の壁面に描いたいくつかの絵の一つに「我が子を喰らうサトゥルヌス」がある。
 ゼウスの父サトゥルヌスが、子の内の一人に将来地位を追われ殺されると予言され、片っ端から子を喰らうという神話に材を取ったその絵は凄惨を極める。恐怖で見開かれたサトゥルヌスの瞳は視点を失い、手にしたわが子はふくよかで美しく、その首から上と右腕は既に無い。左腕は今まさに喰われかけている。鮮血が少ないのは、そのほとんどを呑んだのか。父の総身から放射される狂気と凶気が、その輪郭をかくもおぼろにしているのか。
 
 その絵を思いながら、銀幕の、美貌の老女を凝視した。
 親は喰らうのだ。ややもすると。
 フロイトやユングを持ち出すまでもなく、太古から喰らうのだ。何者かが耳打つ微かな囁きに地中海の神が囚われたように、思い込み、蒙昧し、喰らうのだ。
 自分が親になってみて、自分の中にもサトゥルヌスが棲むとわかった。再び、この映画で思い知らされた。
 そうだ。彼我の差は紙一重だった。

 落ち着きを取り戻した娘は、母に謝罪の手紙をしたため、娘の夫がそれを読む。赦すことができるはずだと、はかなげな希望を娘は自らの内に見出そうとし、それを見守る娘の夫の独白で映画は終わる。
 彼の独白で幕を開け、娘の招待の手紙を彼が読む「はじまり」を逆に辿る「おわり」の演出の妙。独白の内容の重複を含めて、見事だった。
 娘役リブ・ウルマンの演技力にも喝采を送りたい。ややもすると、高峰秀子氏がエッセイで皮肉まじりに言う、役者が陥ってはいけない「熱演」の、大仰なそれになりがちな役どころに、鮮やかな抑揚を施した。

 今日、僕は名画を観て傷ついた。ゴヤの絵を知った時のように、おそらく手ひどく。


ゴヤの絵について。
 サトゥルヌスは、股間が修正されて消されている。
 その修正前に描かれていた状態こそがゴヤの主張ではないかと思う。つまり、当時のスペインの惨状の、その底をくぐって来た者のみが知りうる、男性存在の破壊的な不条理を描いているように思える。
 どこかで、彼が目撃した殺戮者の張り裂けんばかりの股間が、彼の脳裏に焼きついたと想像することは突飛であろうか。
 繰り返すうちに、殺戮のおぞましさが快感に転じなかったとどうして言えよう。
 ゴヤは、古代ギリシャの民が人間心理の様々を物語に置き換えて著した神話という寓話に、違う解釈を与えたのかもしれない。サトゥルヌスは当時のスペインあるいはナポレオンであり、その軍であり、喰われる子たちが民衆なのだと。