結婚以来、28年間、おせち料理を食べていない。
 この間の正月は韓国式である。二種類のチュン(鱈と牛もも肉のピカタ)、五種類のナムル、チョグと言う魚の塩焼き、貝のおつゆ、にしんの塩焼き、棗(なつめ)や生栗、果物、その他の料理にお菓子、大きな座敷机にいっぱいの食べ物。銀食器。厳かに法事をやって、それから食事。
 家父長制が徹底しているのも韓国式で、上座に座った父が大声で話し、皆が逆らうことなく父の話に相槌を打ちビールをつぐ。酔うほどに話は時をさかのぼり、戦前、戦中、戦後の苦労話が顔を出す。
 それらの話は、皆もう何度も聞かされているのだが、情感豊かにとうとうと紡いでいる話の腰を折るわけにもいかず、出来るだけ横道にそれずに円滑にエピローグに辿りつくよう、気の利いた合いの手を入れることに、一同腐心していた。

 父は嫡男を得たいと子供を四人もうけて、ことごとく女の子を授かった後、一人を子宮外妊娠で亡くした。それでも諦めずにもう一度試みて生まれたのが、妻である。その後、僕たち夫婦も二人の女の子を授かった。神のいたずらか、業か、運命の皮肉か、単なる偶然か、そういうことだった。
 妻が十八歳になった年の晩秋に、くも膜下出血で「さよなら」を言う間もないままに、天に召された彼女の母は、過酷な妊娠と出産、その後の子育て、生来病弱だった末娘の昼夜を分かたぬ看病が寿命を縮めたのかもしれないと、妻は今も哀切に言う。
 会うことのかなわぬ義母は、子育てと夫に仕えることのみの人生だった。そう思う。

 韓国生まれの父とこの国の山村生まれの母が、民族の違いを戦時中に越えることの過酷を思うとき、母とその両親の勇気と剛毅には舌を巻く。山深い小さな村にあって、真に国際的だったのだと感嘆する。爪は何処でも研げるのだと、自らに言い聞かせずにはおれない。それだけに、男女平等の時代でなかったことが残念である。

 話を正月に戻す。
 ごちそうの並ぶ古来からの南朝鮮伝統の正月は、家父長の父の食事の終了で終わる。話の合間に食べる父は誰よりも遅く、しびれを切らせて義兄たちは、言い訳のようなものをもごもごと口ごもりながら、席を立ち、ダイニングで陽気に笑う女性陣の方に合流する。末弟の僕が残るのが、なんとなく暗黙のルールだった。最後、妙にしんみりした広い座敷に、父と二人差し向かいで座っていると、本当の親子になったように感じた。静かないい時間だった。
 そんなときの父の、素に戻ったような話疲れた姿は、温もりのあるものだった。話が途切れてうつむいた後ふと父をみると、最後の茶碗飯をキムチと一緒に食べていたりする。すっきり伸びた背中ときれいな箸さばきは酒量がどんなに増えようとも、変わらなかった。そういう格好良さを教えてくれた。
 皆が集うときの食事で、いつも、世相を概観して自分の考えを述べることから話が始まることを思うと、ひょっとすると、父も家父長というペルソナを、演じていたのかもしれない。

 父が逝ってから、韓国式の正月を僕たちはやらなかったが、おせち料理も作らなかった。鮑のお粥、「肉のおつゆ」と僕たちが呼ぶ、牛肉と大根、もやし、わかめのおつゆに、お餅を入れた雑煮。独自の、両民族を混ぜた料理を妻が提案して作った。これに、今年からはチュンも作ることになった。娘どもが焼いた。牛刺しと生鱈の皮を剥ぎ刺身にするのは僕が担った。柳刃の使い方はかつて父が教えてくれた。柳刃は父の形見だ。父に話しかけながら、たっぷり刺した。
 初めて授かった男の子の孫が、たっぷり食べてくれた。