3月半ば、自治会での最後のイベントを終え、翌週には自治会総会も無事に終わりました。

 

隣接する2つの自治会(約300世帯)による交流会です

 

自治会総会 活動報告を終え、余裕で次期の計画を聴く…の図

 

 もしも明日、南海トラフ地震が起きたら、この面々は果たして互いに助け合い、共に生き延びる行動を選択できるのか?

2年間の自治会活動の成否は、まさにそこに顕れる気がします。

 

 

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 その翌日、心なしか背中が軽く、晴れて『大和街道歩き』2日目に出掛けましたニコニコ

 

2日目のルートは平坦な市街地が多い18.4kmです

 

JR関西線 新堂駅 からリスタート

 

駅から大和街道の柘植川沿いまで、400mの農道に続く桜並木 2週間後の方が良かったかも笑い泣き

 

柘植川沿いの旧街道に出ました しばらくはこのロケーションです。

 

 

 御代から壬生野にかけては、西に向けてまだ少し傾斜が有り、川の流れも早めですね。 古くから稲作に適した場所で、古墳や城館が多い地域です。

 伊賀米は今やブランド米として売られていますが、酒米にも適している様で、造り酒屋もちらほら見られます。

『半蔵』や『義佐衛門』が有名ですが、私は名張の『而今』が好きでした。

最近はちょっと手に入れにくいけど…ショボーン

 

すぐに御代(みだい)の集落に入ります

 

小さな造り酒屋が有りますが、今日はお休み

 

珍しい木製の常夜灯

 

集落の外れに有った祠

 

御代を過ぎると、ちょっと寂しい道になります

 

“映えスポット”西ノ沢の桜並木も600m続きます ここで左岸に渡ります

 

 

 佐那具から府中にかけては古代の伊賀の中心地ですね。

国府跡や国分寺跡は佐那具駅の西の高台にあり、木津川から柘植川を経た水運も盛んで、繁栄した様です。

 その流れで中世の宿駅も置かれた訳でしょうが、現在も道筋や点在する古い町屋にその面影を強く感じます。

 

 ただ、観光視点での保存事業や集客施策は無い様で、本陣、問屋場、高札場などの旧跡は一切判りませんでした。

街道の家並みも新しいモダンな民家にどんどん建て替わっていて、宿場の雰囲気は無くなりつつありますね。

 住民の利便と歴史保護との天秤は、難しい問題ですショボーン

 

佐那具宿に入りました

 

宿場らしい“シケイン”

 

府中神社でちょっと休憩 伊賀国府は柘植川の北側にありました

 

この辺りが本陣だった筈ですが…、看板等は見当たりません

 

間口の広い、立派な商家?です

 

幼年で物乞いをしながら病気の両親を養った孝行息子『留松』の碑

 

 

 上野城下を控えた東側、広い田んぼが広がる穀倉地帯は服部町。

忍者ハットリ君の発祥の地ですね。

服部姓は服飾を担う役職から来ていて、全国的にも珍しくありませんが、伊賀の服部氏は忍者の首領として栄えた様です。

 

 有名な服部半蔵家は少し南西の千賀地を本拠にしていましたが、他の服部諸家もこの服部町からどんどん拡大して、三重県では12位の多い姓となっています。

ホント服部さん、どこにでも居ます爆  笑

 

『恋の湊』あたり その昔、伊賀国府の湊があったそうです 名の由来は不明

 

印代の集落を抜ける大和街道

 

国道25号線で田園地帯を南下 上野のお城が見えてきました

 

服部町にある小宮神社は伊賀二ノ宮ですが、荒れ気味 服部氏はここの神職が出自らしい

 

服部町から服部橋で服部川を渡る…ニンニン♪

 

 

 上野城下に入って来ました。

最初に出て来る史跡は、松尾芭蕉の生家。

松尾家は上柘植の豪族福地氏の支族で、福地城下で生まれた説もありますが、父の与左衛門は帰農後、寛永年間に上野城下に移住したので、どっちが先か不明なのです。

ともかく、芭蕉は31歳で江戸に発つまでの30年余りをこの家で暮らした様ですね。

 

 芭蕉と言えばあまりに高名なので、“上野はただの生誕地”と見る人も居るでしょうが、俳人として高名になってからの江戸行きであり、その後何度も帰郷しています。

この上野を拠点に畿内で活動した時期もあるので、故郷以上の俳諧の基盤の様なものが上野には有ったのでしょうね。

 

また旧街道に戻った平野町 道は狭くなるが、新しい家が多いですね

 

街道は上野城外郭の断崖にぶつかり、『赤坂』を登ります

 

坂の途中にある立派な石室の厄除け地蔵さん

 

坂の上の田村麻呂道標 『左東海道せき道』

 

その奥の旧家が松尾芭蕉の生家らしい

 

町家の意匠も少し豪華になってきましたニコニコ

 

 

 上野宿の地形は“上野”と呼ぶ様に木津川と服部川に挟まれた台地上であり、古代には集落など人の生活痕は無かった様です。

平安末期、平清盛が城山に平楽寺という真言宗寺院を建立し、その後には36の子院を持つ大寺院になったと言いますから、ある程度の門前町は形成されていたと思います。

 

 平楽寺が天正伊賀の乱の兵火で灰燼に帰すと、奈良から移って来た筒井定次が跡地に上野城を築城し、城下町も造成しました。

 城と共に城下町を大々的に縄張りしたのは江戸初期の藤堂高虎で、大和街道も城下に取り込んで、宿場機能を整備した様です。

 

 宿場町は上野城と家臣屋敷に挟まれる様に東西に延びており、宿場の出入り口は城戸と急な坂道なっています。

高虎さん、通行人をシッカリ管理できる、関所的な縄張りですねガーン

 

広小路で伊賀街道が合流して来ます 藤堂家の本拠:安濃津から支城の上野を結ぶ官道です

 

電線が無ければ、タイムスリップですね爆  笑

 

道真を祀る菅原神社(上野天神宮)は上野の総社で、賑わっています

 

本町通りが大和街道です ぼちぼち忍者が現れるか?

 

バスに乗って現れた!爆  笑

 

雰囲気の有る老舗の和菓子屋さん

 

路地からはお城が見えて、まさに城下町ですね

 

 

 上野宿を出ると、街道は木津川の洪積平地に降りて行きます。

荒木又右エ門の仇討ちで名高い『鍵屋の辻』を過ぎると、前方に比自山が見えて来ました。

 天正伊賀の乱の激戦地のひとつですが、数年前に伊賀市の学芸員と話したとき、『手付かずの藪だらけで訳わからん!』と訴えたら、『間もなく整備を始める予定です、お楽しみに♪』と言っていました。

 どうやら過日には、『馬秀のすけさん』も登城されたみたいなので、近々には行って見たいと思いますウインク

 

上野城下を抜けると、『黒門坂』の下り道

 

坂の途中で朽ちて行く昭和が…

 

坂を下り切ったら『鍵屋の辻』 あなたと歩いた数馬茶屋は…見当たらなかったえー

 

『みぎいせみち ひだりなら道』 …彫ってある通りだてへぺろ

 

本流:木津川を渡ります 前の山は天正伊賀の乱で伊賀衆が籠った比自山城址

 

長田地内の道標『左なら道 射手八幡宮道』

 

 

 現在の大和街道はこの先、国道163号線で笠置までシュッと行ってしまいますが、旧道はここからが山越え区間で、街道歩き本番です。

 藤堂高虎は家康からこの地を貰うと、大坂方(豊臣)から容易に攻め込まれない様に、工夫を凝らして街道を整備したそうです。

どんな工夫だったのか…楽しみですね~爆  笑

 

 三軒家から島ヶ原まで、街道は比較的平坦な谷間を通らず、敢えて山に登って行きます。

そして始まった地道区間、僅か1km程度ですが、江戸時代の街道がそのままの姿を留めていました。

 道幅は2~3間で坂は有るものの石畳や石段は無く、軍用道路みたいで、八ヶ岳山麓で歩いた『信玄棒道』思い出しましたニコニコ

 

国道163号線に合流 しばらく側道をゆく 

 

ジャンボ勧請縄がありました これは効きそう爆  笑

 

三軒家交差点で東島ヶ原へ向かう市道へ 意外と車多し

 

大和街道の看板通りに、田んぼの中の細道へ

 

三軒家集落を過ぎると、右側に登って行く道があります

 

藤堂高虎が整備した、まんま大和街道 本日唯一の地道区間です

 

 

 三本松の池からは一転して舗装路の下り坂で、山間を緩やかに下って行きます。

やがて民家が現れ始め、眼下に島ケ原の町が見えだすと坂道は急激に落ちて行きますガーン

『長坂』、『芭蕉の尻もち坂』、『与右衛門坂』と、疲れた膝に負担が大きい坂道の連続でした笑い泣き

 

 なるほど、東からは下りだけど西からは物凄い難所ですよね。

島ヶ原は木津川沿いの細い谷間の町で、背後の山上には城址が幾つもあります。

高虎は大軍を食い止める地点を島ヶ原と決め、敢えて街道を山越えさせて、その高低差を強力な武器にしようとした…のかも爆  笑

 

15分ほど登った頂上にある『三本松の池』一服の涼感ありで、ここで小休止ウインク

 

池からは緩い下り坂で、集落に入ると急坂で下って行きますびっくり 逆ルートで良かった

 

与右衛門とは高虎の通名ですね 

 

坂を下り切ったら旧本陣?…こっち側に有るんだっけ?

 

木津川端に出ました 橋の向こう側が『島ヶ原宿』の筈です

 

事の真相は次回に調べるとして、今日は島ヶ原駅から帰宅しますニコニコ

 

 

次は島ヶ原から笠置まで歩きます。

 

 

3日目につづく