『疋田家:埋縄城』三重郡朝日町埋縄

 

 次には朝日町に入って疋田家の埋縄(うずなわ)城跡を訪ねます。

と言っても、広永城跡とは谷を一本挟んだ直距離500mの近さなんですけどね。

 

この坂の上あたりが埋縄城比定地です

 

ここら辺なのですが…殆どまっ平。

 

背後の丘がそれらしく見えますが、採土した残りの丘みたいです これだけの深さまで削った様ですね

 

 疋田家は南伊勢多気郡の土豪とも三河宝飯郡の土豪とも言われ、明らかではありませんが、いずれかの一族が幕府奉公衆となり、朝明郡の埋縄村を支配するため赴任していた模様です。

 埋縄村の石高は300石程度ですから、さほど規模は大きくない氏族ですね。

 

古絵図と日本城郭体系の縄張り図を対比 絵図の中心部分が測量作図されてる様です

 

 埋縄城は埋縄集落の北東に接する丘陵の標高40mの台地上に築かれた丘城で、城主は疋田左京という名が古絵に記されていますが、織田信長の伊勢侵攻時には抗戦し、永禄10年(1567)の戦いで落城しました。

疋田家のその後の消息も不明です。

 

縄張り図と現在地図を比較照合すると… 簡単に場所が特定できました

 

 埋縄城も広永城と同様に、近年の開発で大規模に改変され、“消滅した城跡”となっていますが、開発目的が工業用地で昭和末~平成初年代の施工でした。

お陰で、開発前には城址の学術調査が為されており、その際の元の地形と縄張り図が日本城郭体系(昭和55年発刊)に掲載されています。

 それを現在の地図と照らし合わせたところ、住宅、道路に共通する部分が多く見られ、場所を特定するのは比較的簡単にできました。

 

①城址方向は殆ど凹凸無く造成されています この辺は農地開発か?

 

②堀底だった谷を堰き止めた溜池 縄張り図に載っており、開発以前からの農業用水池の模様

 

③池の堰堤から北を臨む 目の前に主郭の土塁が聳えていた筈

 

④城下の集落方向 この谷川が外郭の防塁になっていた筈

 

⑤この奥に比高20mの主郭土塁が聳え、右手に大手虎口が有った筈ですが…

 

 しかし、こちらも主郭がゴッソリ削り取られており、そこに在るべき山が全く無い姿には唖然としてしまいますね。

昔の人達が鍬で削り、モッコでせっせと運んで版築した土塁が、現代の建設用土として活用されたのだから、まったく無駄ではなかった訳ですけど…。

 

城址を削り取って造成した工業用地も、まだ殆どが未入居の空き地のまま…

 

 

次は佐脇家の柿城を訪ねます。