島ヶ原~笠置の続きです。
大河原大橋で木津川を渡り、左岸沿いに笠置に向かいます。
橋上から見る木津川上流 我が古民家の前を流れてきた水なので、親近感あります(^^)
幹線の府道は対岸で、国道は山の向こう側。 古道を通るクルマは殆ど有りません
すぐに南大河原の集落に入ります
路傍に宝篋印塔 素性案内はありません
南大河原にはまとまった平地があり、意外と大きな集落です
天神社と併設される恋志谷神社
集落の中心に恋志谷神社という神社があります。
村の鎮守様にしてはたいそう立派で、名前も訳ありな感じなので調べて見ました。
元弘の乱(1331年)の際に後醍醐天皇が笠置山に籠り戦いましたが、その報を聞いた帝の寵姫が病気を押してここまで辿り着いたのだそうです。
しかしその時には帝はもう笠置山を去っていた為、落胆した姫は病状を悪化させ、『恋しや 恋しゃ…』と嘆きながら果ててしまったそうです。
姫を哀れに思った村人は、亡骸を葬って祠を建て祀ったのがこの神社の起源だそうです。
もう用は無いけど、恋愛成就の御利益があるそうですよ(^^;
そんな事もあってか、この南大河原の集落はなにか整然とした、纏まりのある“惣村”の一体感の様なものを感じます。
羨ましい。
辺鄙な田舎なのに廃屋も耕作放棄地も無いから、凄いですね
集落を過ぎるとまた、山と川が迫って来ます
カヌー教室は土日開催かな? 『日本のカヌー競技発祥地』という看板もありました
そういえば時々見える木津川は広く流れが緩やかな淵になっていますね
十一面観音磨崖仏像 室町後期の作らしい
木津川の淵はまだまだ続きます この先にダムって有ったかな?
ここまで、比較的広くてクルマの少ない舗装路を歩いて来ましたが、ここからやっと昔ながらの姿を留める地道区間に入ります。
道は急な上り坂になっていますが、大和街道は右の地道に入って行きます
今回初の地道 落ちて積もった杉の葉がクッションになって、疲れた足に優しい道です
と、道端の木の幹に爪を研いだ痕が… ついに
出没か?
よくよく見ると、🦌が木の皮を食べた痕だなぁ(たぶん)
ちょっとした平場に出たら、古い建物跡の様な石積みがあります 民家か茶屋跡か?
反対側には大きな地蔵さん これも室町末期の作でした
その先は大き目の沢が流れ落ちていますから、茶屋の立地条件が揃っていますね![]()
どうやら野生の獣たちもお客さんみたいです![]()
それまで、4WDの軽なら走れそうだった道は歩道の狭さに変わりました
川はもう湖の様相
ヒノキのトンネルの向こうから大きな瀬音がしますが…
やはり小さなダムになっていました 建物は関西電力の相楽発電所ですね
よくよく見ると、川船を通す閘門とゆるやかな魚道もあって、これだけでも文化財的価値は大きそう
関西本線大河原鉄橋 これも明治30年架橋の文化財です
道は少しづつ登って行きますが、この道は日常的に使われている様ですね
そして関西線の脇に出ました。 建物は関西電力布目川発電所
ここからは線路を渡って、線路わきの歩道を歩きます
…といっても保線作業路ではなく、れっきとした東海自然歩道なので、大和街道そのものなんでしょう
整備も行き届いて、気持ちの良い道です
しかし線路脇は列車に触れられる近さなので要注意! 1時間に2本だけど…。
ゴールの笠置が見えてきました
川は相変わらずの岩だらけ
本当に、一面花崗岩の岩盤の上を流れてる川ですね
さて、最後に前編の伏線回収をしましょう。
藤堂高虎が伊勢の田丸領を返上して、この山城相楽郡を領地に加えたのは慶長20年(1615)の事です。
ちょうど大坂夏の陣が終わった直後ですね。
将軍:徳川秀忠は焼け落ちた大坂城の上に新たにより巨大な徳川の大阪城を築く判断をしており、元和6年(1620)天下普請で築城を始めます。
総奉行は高虎です。
大阪城築城・良質な花崗岩の産地・木津川の水運という要素がこの領地替えに見事に一致する訳です。
築城名人:高虎が高虎であるためには、勝ち続けなきゃならない…
治めやすい田丸領は勿体ないが、その後しばらくの泰平を見越して、最後に自ら仕掛けた大勝負だったのではないでしょうか?
*あくまでも個人の推測ですが(^^;
笠置が近付くと川沿いの街道は綺麗に整備され、家族連れや若者グループが思い思いに水遊びに興じています
それを見守る磨崖仏
笠置宿に着きました 笠置寺を中心に古くから栄えた町ですが、近年は過疎化が激しく、人口千人を切る日本最小クラスの町です
笠置駅から島ヶ原に戻ります
=完=
笠置は桜の名所でもあるので、桜の写真を数枚載せときます![]()




















































