1時間の約束で山上之丸を見歩いていたら、残り時間あと数分となったので、急ぎ足で久松山を下山して行きます💦

それでもゆうに15分は遅刻した訳ですが、同行者は天球丸の松の木陰のベンチですっかり寛ぎ中でした。

高い石垣端で心地良い風が吹き抜け、日陰の涼しさに眼前の広がる城下町の風景、そして歴史のある城址独特の雰囲気で、穏やかな良い時間を過ごせた様でした。

大事に至らず、良かった爆  笑

 

 

 さて、後編では山下之丸を順次観ていきます。

 

山下之丸も『余呉クンのホームページ』さんのお世話になります

 

中ノ御門周辺に続く太鼓御門跡 奥の建物は三ノ丸に建つ鳥取西高体育館

 

この辺りの打ち込み接ぎは宮部継潤の匂いがプンとします

 

太鼓御門は幅24mあり、最大の櫓門でした

 

三ノ丸(鳥取西高)裏手の土手 石垣修理中?かと思いきや、此処はずっと切岸でした

 

登城路左手の二ノ丸高石垣 石段が登城路で、右の舗装路は近年の工事用でしょうね

 

それでも丁寧に巻き石垣が施されています

 

 

 関ヶ原の後に鳥取に入った池田長吉は、6万石という限られた原資の中で鳥取城の山下之丸を大々的に整備して行きます。

 現存する遺構の基本範囲は長吉によるものだそうですから、後の大藩の居城にしては物足りない感じもする城域でも、石高に比すると随分頑張っています。

 さらに長吉は伏見城、江戸城、丹波亀山城などの天下普請に積極的に参加し、近隣の森家、山崎家、亀井家とも縁戚を結んで大名としての地歩を固めて行きます。

西国将軍とも呼ばれた池田輝政の一族…では括れない、独立独歩のスタンスですね。

 

左手は二ノ丸高石垣 手前から基壇、多門櫓出隅、三重櫓台ですが積んだ時期の違いか、稜線ラインが異なります

 

三ノ丸上の小郭 楓の庭園『楓亭』が有った場所か?

 

その上の石垣で閉じられた不可解な小郭は…

 

“物見御殿”の郭で、 藩主の私的な空間で風流の場でもあったそうです

 

後には御殿の造営で公的な郭になり、盾蔵と呼ばれる平櫓が造られました

 

この郭は天球丸の下にあたり、球形の巻き石垣が良く見えます

二段石垣に補強したのは池田光政で、天球丸の本丸化を画策していたのかも知れませんね

 

 

 池田家家系図からの考察ですが、池田恒興の男子4人のうち徳川幕府の信頼・報償は輝政に集中しており、本来の直系(元助の子)である由之と末弟の長政は臣下(家老)とされています。

 長吉は独力で大名として自立したものの、いずれもその後は輝政の宗家との縁組もなく、もちろん連枝でもなく、完全に別家扱いの感があります。

そんな閉塞した環境こそが長吉を頑張らせた源泉だったのかも知れませんが…。

 

 しかし長吉の子:長幸が継承した3年後の元和3年(1617)、池田長吉家には5千石加増の6万5千石で備中松山藩への移封が命ぜられます。

前年に輝政の後継の隆利が死去し、伯耆の中村氏も絶家したタイミングで、姫路42万石の池田宗家が因幡、伯耆32万石に減転封される玉突きで追い出された訳ですね。

姫路城召し上げと譜代への置き換え、10万石もの収公は譜代の重鎮:本多家の怨嗟なのかも?

 

天球丸の入口の御風呂屋御門 古屋が語源みたいです

 

最高所の天球丸は広大です 長吉は山上之丸に代わる本丸として造ったと思いますが、御殿を造る余力が無くて放置された…というのが考察です

 

郭の山側には沈殿枡を持つ近代的な排水溝が…

 

ここまでやると近代の造作かなと思えてきます

 

最後は草木を篩って大径パイプで竪堀を落ちて行きます これは近代設備だ爆  笑

 

竪堀はその奥にも連続して有りました

 

 

 姫路から鳥取に移ってきた池田光政はまだ8歳の幼君でしたが、池田宗家の家中には優秀なブレーンが揃っていた様で、総力で難題を解決して行きます。

姫路45万石の家臣がそのまま移った為、俸禄は一律4割減としました。

 因幡に伯耆が加り一国一城令により米子城が残ったので、信頼できる優秀な城代を置いた現地での一元統治が必要でした。

 まだ地域の独自性が強い両国では、法令遵守や年貢の吸い上げも捗らず、当面は主要な地域毎に陣屋を置いたエリア統治をも余儀なくされます。

つまり、鳥取城を居城にしても富も権力も集中せず、中央集権の取りにくい非効率な国情だった訳です。

 

天球丸全景 若桜藩主の山崎家盛に嫁いだ長吉の姉(天球院)が出戻って来て此処に住んだから、そう呼ばれるそうです

 

光政は此処に二重多門に望楼が載った三重櫓を建てました

 

東側は竪堀から続く深い谷に守られています

 

巻き石垣を上から 天端石も曖昧で、石積みが粗い気がしますね

 

城域を見下ろす 右の郭が主郭の二ノ丸です

 

 

 そんな背景での光政の鳥取城整備は、城下町に重点を置いたものだった様です。

外郭を千代川のラインまでは拡大せず、詳細は不明ながら、城に近い支流の袋川を防衛ラインの外堀としており、川の土手に竹を植えて防備のひとつとした様です。

 場内では、内堀大手に枡形門を造り、二の丸と天球丸に三重櫓を上げて、大藩としての体裁を整えるに留めています。

壮麗な天守の姫路藩の元藩主としては、最上段の天球丸に大天守が欲しいところでしょうが、泰平の時代と藩の財政環境を鑑みて、戦える城ではなく統治の象徴としての城館に、冷静に舵を切った故の事と思われます。

 年齢からして光政の優秀さ以上に側近の力が大きいのでしょうが、鳥取時代の難しい状況判断と適切な対応経験は、後に光政が“江戸時代の三賢公”と称される名君になる基盤だったのではないでしょうか。

 

二ノ丸へ向かう石垣に守られた階段

 

下り階段には板塀の柱穴

 

二ノ丸表御門跡 左手前は走櫓の櫓台

 

その奥の菱櫓の櫓台と雁木

 

 

菱櫓の台上 菱櫓は家老衆の執務の場でした

 

走櫓の台上から天球丸を見る

 

 

 寛永9年(1632)、光政の叔父で岡山藩主の池田忠雄が死去すると、幕府は鳥取池田家と岡山池田家の領地交換による入れ替わりを命じます。

岡山池田家とは…、光政の父:隆利が輝政の長男=嫡子であるのに対し、忠雄は六男なので“分家”になる筈ですが、母が輝政の継室:督姫(家康の次女で元北条氏直夫人)なので、家康の孫として格別の待遇が与えられていました。

石高は宗家以上(31万5千石+分家6万5千石)で松平姓・葵紋も許され、江戸城中での扱いは御三家、加賀藩と同等だったそうで、宗家以上の特別な家だった訳ですね。

 

菱櫓は二ノ丸基壇から一間オフセットされています

 

藩主の御殿だった二ノ丸 桜の古木が往時を偲ばせています

 

木造復元が決まっている三重櫓の櫓台 もうキレイに積み直しが終わっています

 

三重櫓台上から北門方面 前方の建物は県立博物館

 

二ノ丸西端にある登り石垣 幕末の作だそうですから、何のため?

 

二ノ丸西端部の高石垣 この角石による算木は最新作かな?

 

 

 新たな藩主は嫡子の光仲が継ぎますが、まだ3歳の幼児だった為、 それが国替えの表向き理由とされました。

『山陽道岡山は要地につき、治世の実績が高い光政に…』という事ですね。

 

 ここからは私見ですが、忠雄には前述の様に厚遇があったので、幕閣に対しての振舞いにも傲慢な部分が有ったのではないでしょうか。

象徴的な事象として『鍵屋の辻事件』の経緯にそれが現れていて、外様vs旗本の無益な対立、結果として忠雄側の一方的な勝利で旗本側の憤懣が抑え切れなくなり、幕府内でも何かしらの制裁措置が思慮されていたと思うのです。

 荒木又右エ門はヒーローになりましたが、最後は移封後の鳥取藩に引き取られ、間もなく死去していますから、すでに忠雄亡き鳥取藩内で『ボロ勝ちしてしまった悪影響への責任』を問われたのだと思います。

 

二ノ丸の下段:右膳丸は城代家老:高木右膳の屋敷跡 五輪塔群は一族のものか?

 

見上げる二ノ丸高石垣

 

丸ノ内へ下る途中の中仕切門も幕末の作


昭和50年に復元されました

 

宝隆院庭園で修理中の建物は仁風閣 明治40年の皇太子行幸時の宿舎として建てられました

 

丸ノ内は江戸初期には重臣屋敷、後には倉庫群があった場所です

 

 

 話が脱線しましたが元に戻すと、光仲からの『忠雄流池田家』はその後明治維新まで12代236年にわたり鳥取藩主を務めます。

 鳥取城の主な改変としては、家臣屋敷をすべて内堀の外へ出し、新たな御殿や庭園を造設して、より大藩の藩主の宮城らしくした事でしょう。

光政が仕掛けた統治システムが定着して行くと次第に中央集権化も進み、財政状況も好転していたと思います。

 

 享保5年(1720)、城下で発生した火事が強い南風で場内に移り、城の大半を焼き尽くす大火に見舞われました(石黒火事)。 この復興再建も言わば最大事業であったと思います。

 また、二百数十年もの長きにわたり城郭を維持して行くには、相応の補修工事も伴ない、天球丸の高石垣を補強修理した球状の巻き石垣は他に例がなく、鳥取城を代表する遺構になっています。

 

丸ノ内から山上之丸、山下之丸を重ねて見る 日本城郭史が持つ二つの顔です

 

北門から出ます 往時は搦め手門、現在は車両通用門でした

 

橋上から内堀 次はここの石垣補修ですね。

 

最後にもう一度振り返り、山上之丸天守台

 

 

 明治6年(1876)の廃城令では存続とされた鳥取城は、陸軍省の管理となりますが、

3年後に鳥取県は島根県に吸収された為、『松江城の他は不要』として殆どの建物が解体され、石垣を残すのみとなりました。

 しかし近年、鳥取県は100名城選定を機に30年間の長期で木造復元計画を立てて復元に取り組んでおり、すでに完工した中ノ御門周辺に次いで、太鼓御門を中心とした大手登城路、最後には代用天守と言える二ノ丸三階櫓まで計画されています。

 

もう居ないかも知れないけど、10年後の姿が楽しみですね。

 

 

 

日本海の海岸沿いをチンタラ走っていて見つけた風景 穴見海岸(兵庫県美方郡新温泉町)です