石見銀山から日本海側の海辺に出て、鳥取を目指します。
高速道路が未整備で、とにかく時間の掛かった山陰路も、現在は山陰道がほぼ繋がって便利になりました。
まだ片側一車線なので、すべて『無料区間』なのも嬉しいですね![]()
ところが、今回この“一車線”で酷い目に遭ってしまいます…。
松江市付近を東進中、急に渋滞が始まり、すぐに動かなくなってしまったのです。
スマホ検索してみたところ、30分後くらいにバスが故障で本線上での立ち往生と判りました。
不幸中の幸いで、SA入り口での停車だったので、すぐにSAに滑り込んで開通を待ちますが、僅か数百メートルの移動で済む故障車の撤去が遅々として進まず、人身事故の現場検証付き並みに2時間あまり通行止めで待たされてしまいました。
おかげで、チラッと寄りたかった倉吉城には寄れず、鳥取駅前のホテルに投宿できたのは8時を過ぎていました。
道路公団も県警も、昔の『Time is money』といった観念はあまり無い様ですね。
以上、本日のボヤッキーでした。
山陰道宍道湖SAにて 本線上のクルマからSAのトイレに歩いて向かう人達で賑わっていました
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翌朝は少し早めにチェックアウトして、向かった先は鳥取城です。
日本200名城 №63 鳥取城 鳥取市 登城日:2026.8.23
別名 久松城、久松山城
城郭形式 山城→梯郭式平山城
標高/比高 263m/258m
天守 天守台のみ(三重天守のち二重天守が存在した)
築城年 天文年間(1550年頃)、慶長年間に大拡張
築城主 山名誠通、宮部継潤、池田長吉、池田光政
城主 山名氏、吉川氏、宮部氏、池田氏
廃城年 明治4年(1871)
残存遺構 石垣、堀、井戸など(復元:門、橋)
文化財指定 国指定史跡
所在地 鳥取県鳥取市東町2丁目201
日曜日の朝 県庁西駐車場(無料)にクルマを駐めて久松山を見上げます 思った以上に高い💦
目の前の丸ノ内跡に建つ銅像は吉川経家 やっぱ鳥取城のヒーローはこの人なんだな
近年、大手の中ノ門周辺が木造復元されています これで随分城らしくなりましたね
これも復元、木造の擬宝珠橋を渡って郭内へ入って行きます
中堀の幅は30mほど 石垣も低いし戦時にはちょっと心許ない幅です
鳥取城の起こりは、山陰の雄:山名氏の内訌で因幡山名氏の誠通が但馬山名氏の祐豊に対抗する拠点として、天文年間に見通しの良い久松山山上に築いたとされます。
両者の争いは激化し、双方に尼子氏と毛利氏を巻き込んだ争いに発展しますが、さらに播磨に進出して来た織田氏(羽柴秀吉)が絡むと、より複雑な様相となります。
一進一退の展開で要所となった鳥取城の城主は目まぐるしく変わりましたが、戦いの様相は毛利vs織田になって行きます。
この頃の鳥取城は山上に郭塁の主体を置いた中世山城で、山麓にも常の根古屋と基本的な防塁は有ったでしょうが、後世に池田氏により大改修されているので、今となってはその概要は不明です。
最初の高麗門を潜ります
中はちょっと狭いめの枡形になり、右折れで櫓門が待っています なんか、シンプル…
櫓門から中に入りました なんか、物足りない様な…
雁木があって石垣上は武者溜まりのスペースがあるけど… そうだ、狭間がひとつも有りません 設計者が忘れたか?
この先の太鼓門も復元予定の様ですが、まだ工事初期でした
中央にズドンと大手道が通り、両側に郭の高石垣が重なる縄張りは王者の風格ですね
天正8年(1580)の攻勢で鳥取城を確保した毛利氏は翌年、それを確固たるものにすべく、石見国を統治していた重臣で名将の吉川経家を城主に入れました。
戦力は山名旧臣1,000+吉川勢800の総勢1,800、決して多くはない戦力です。
一方の秀吉も鳥取城の奪取は喫緊の目標であり、翌天正9年の夏には2万の軍勢を動員して鳥取城を囲みます。
2千弱の城兵に対し、黒田官兵衛の献策による兵糧攻めの消極戦法であり、グルリと囲んだ付け城の数は70にも及びました。
大手道は鋭意整備中です
両側には興味深い石垣の見本市が続きますが、ここで同行者とは一旦別れて、まずは早朝のうちに山上之丸を攻略せねば…
石段が広いなぁ 輿を傾けずに運ぶ工夫か?
山下之丸の最高所は標高52m 山上之丸入口ですが、此処からあと210mも登ります💦
八幡社跡か
まだまだ始まったばかり… 日曜日というのもありますが、こうゆう城址にしては登山客多いです
しかしこの作戦にあたっては事前の周到な段取りが行われていて、秀吉は秘密裏に若狭の商人に膨大な資金を与えて、鳥取一円の米を買い占めさせていました。
おそらく、5㎏あたり5,000円くらいの途方もない金額で買ったのでしょうね。
地域の商人だけでなくトラックで百姓の家を一軒ずつ廻って買い占めており、鳥取城の城兵もこれはチャンスと城内の兵糧米の過半を持ち出して銭に換えました。
最後には一家の飯米まで換金してしまう百姓も続出して、鳥取には銭は有るが米が無い状態にしていました。
中腹の五合目にある権現社 木戸の曲輪跡らしいが、皆さんここで小休止して鋭気を回復します
しかし、ここで諦めて引き返す人も多い
“上にあるもの”への執着の違いかな?
私の場合、知識欲もありますが、こうして〇合目と数値目標が示されると、クリアする為の執念の様なものが反射的に働きます。元社畜サラリーマンの所以ですね。 あと一息!
先に石垣が見えてきました♪
旧い瓦の破片 こうゆうのも違うパワーをくれます
ついに大手虎口に着きました
山上之丸の縄張り図は思ったモノが探せず、久々に『余呉クンのホームページ』のお世話になります
秀吉による攻囲戦が始まると、飯米の無い領民は銭を持って秀吉軍の陣地に殺到しますが、秀吉はそんな民衆を鳥取城内へと強引に追いやります。その数2千。
2千弱の城兵の兵糧が1ヶ月分まで減っていた所に、口が倍増した城内はすぐに食料が底をつき、2ヶ月で草木や家畜も食べ尽くし、修羅の場と化してしまいます。
俗に言う『鳥取城飢え殺し』ですが、それでも4ヶ月籠城を続けたものの、カニバリズムの世界に至ると、吉川経家は自身の首と引き換えに城兵を助ける条件で降伏開城を打診します。
実は織田信長の指示では吉川経家は織田家臣として従属させる思惑だった様で、秀吉からは重臣2名の首で良いから…と回答しましたが経家は頑として譲らず、やむなく秀吉は信長の了解を得た上で、経家の自害と降伏を受け入れました。
辞世は
『武士(もののふ)の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖(すみか)なるらん』
行年35歳でした。
経家の子孫で近年落語家で大成したのが吉河寛海さん、高座名:5代目三遊亭圓楽(馬圓楽)なんだそうです。
この石段はキレイで江戸期のものです 平和な時代も象徴的な本丸としてメンテされていた模様
右手(東側)には旧二ノ丸、三ノ丸の小郭が続いています トイレ、被雷小屋があるのは素晴らしい
本丸は一段高く、二重門になっていた様ですね
本丸は広く、詰城以上のキャパがありそう 奥には天守台
井戸だって有りますよ 水の手は万全
天守台は低い石垣ですが広さがあります 上で多くの人が集まり、歴史講義中の様な雰囲気だったので、全容写真が撮れませんでした 残念!
織田家の持ち城となった鳥取城に秀吉は宮部継潤を城代として置きました。
その後、因幡、伯耆で5万石を得た継潤は正式に鳥取城主となり、息子の長房とともに慶長5年(1600)まで城主を務めますが、九州、関東、朝鮮と戦続きの中で、城郭の改修にも務め、山上の天守台をはじめ土塁→石垣化を進めました。
さすが本場近江の人ですね、城内に遺るの野面石垣はほぼ宮部氏の仕事みたいです。
関ヶ原の戦い前、宮部長房は500の兵で徳川家康に従って上杉討伐に向かいましたが、小山評定の後に戻って西軍に加わり、伏見城攻め、大津城攻めに従軍しました。
しかし、本戦が東軍の勝利となった為、改易の処罰を受けます。
城代家老の守る鳥取城は本戦後に亀井茲矩、斎村政広によって攻められ、城下は灰燼に帰してしまいました。
北西の千代川河口(湊)方面 天守の造営は宮部継潤が初で、三層だった様ですが…
北には鳥取砂丘 冬場の季節風を遮るものが無く歪みが生じた為、池田長吉により二層に変更されました 東国のこうした城には北面に防風の高土塁がありますからね
穴蔵と呼ばれる天守の半地下構造 手前側は天守台石垣がかなり崩落しています
東側のあの山は秀吉本陣『太閤ヶ平』 当時はまだ織田家の一武将でしたけどね
眼下に広がる山下之丸と鳥取城下
南東側遠望 山の稜線にはビッシリ秀吉の付城包囲網が築かれていました
焼け野原の鳥取城に新たに入って来たのは池田長吉でした。
長吉は池田輝政の弟で、池田家の一翼を担う族将でしたが、関ケ原本戦後に長束正家が籠った近江水口岡山城攻めに単独で従軍し、言葉巧みに正家を降伏させ自害に追い込んだ功績により、6万石の独立大名として鳥取城が与えられたものでした。
以後、鳥取城は池田一族により明治維新まで支配され、小大名の素朴な山城から大大名の壮麗な宮城へと変貌して行く事になります。
《後編》につづく
かつ江さん、好きな城キャラなのにどこにも居ませんでした





































