お盆を過ぎてまた、暑さがぶり返して来ましたね。

年を追う毎に厳しさの増す夏季の“家庭菜園環境”、今年は追い討ちでサルにも入られ、ホント散々でした。

 

毎日110リットルの給水体制で臨みましたが…焼け石に水でした

 

スイカ、カボチャ、トウモロコシ…の夢の跡 残渣はすでに片付けて畝間に埋め込み、冬野菜の準備中

 

サルの天敵のヘビを作り留守番頼んだけど、効果なし🐵

 

こりゃ早晩、夏野菜の栽培は諦めなきゃならん時期なのかも知れませんね。

 

 

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 老境世代の家庭の事情で、実家の墓参にはお盆明けの一週間後に出掛けました。

墓参を終えた後の恒例になっている四兄弟ミーティングは、この1年間で欠員が出る事もなく、無事開催となりましたが、今年は実家から更に西へ150km、島根県太田市の三瓶温泉で準備されていました。(もっと近くにしてくれ~ぃ!)

 

朝、宿の窓から見えた雲海は三次盆地かな?

 

 

 翌日の朝、以心伝心で一年後の再会を約して現地解散となった訳ですが、ここまで来て直帰するのも夏野菜と同様に実入りが薄いので、名所を物見遊山しながらのんびり帰る事としました。

 島根県で未踏の名所といえば、『世界遺産 石見銀山』がありますね。

三瓶山からは20kmほどの距離なので、迷わず行ってみます。

 

 

世界文化遺産 石見銀山 島根県太田市 訪問日:2026年8月22日

 

 

 石見銀山は戦国時代から銀を産出する国内有数の鉱山で、中国の覇者:毛利氏の財政を支える大きな柱であった事、その後豊臣、徳川の時代にも政権の財政を潤した事、そして廃坑となった鉱山の遺構が大きく損なわれず遺る事が評価されて、2007年にユネスコの世界文化遺産に登録された…。

 

 予備知識としてはこんな程度なので、“石見銀山をどう観るか?”が大きな課題ですね。

そこでまず、石見銀山の全容を展示するガイダンス施設『石見銀山世界遺産センター』に立ち寄って基本情報を仕入れます。

 

石見銀山(大森地区)の2km手前にある世界遺産センター

 

銀山の歴史や坑道の分布、掘削道具などが整然と展示されています

 

坑道口周辺のジオラマも充実

 

坑道の拡がりを示す模型 採算限界の200m以上の深さまで掘られているそうです

 

 石見銀山が発見されたのは鎌倉末期の事で、周防国守護の大内氏により小規模な採掘が始まった様です。

 銀鉱山として本格的に開発が始まったのは室町後期で、博多の商人:神屋寿禎(宗湛の曽祖父)が坑道を整備して大量の銀を産出し、上納を受ける大内氏ともども巨万の富を得ました。

 

 一躍名の知れた石見銀山は、戦国期に入ると大内氏、尼子氏、毛利氏の間で激しい争奪戦が繰り返されます。

 銀山周辺には城址が多く点在しますが、それぞれの氏族が奪取・防衛の為に整備したものの様です。

 最終的には地域を制した毛利氏が支配を確定し、吉川氏がその管理を担った様ですが、豊臣政権になると毛利、豊臣の共同管理とされ、徳川幕藩体制では幕府直轄領(天領)とされて、幕府代官が置かれて支配を担いました。

 

 その頃の銀産出量は年間38tに及び、日本最大の銀鉱山になっていました。

ちなみに、日本全体では年間200tの産出量があり、世界で流通する銀の三分の一を日本産が占めたそうですから、今から思うと凄いものです。

 

 

銀鉱石 右側の光っているのが銀ですね。 山の岩肌が光っているのが発見された契機だそうです

 

精錬された銀は『石州丁銀』に鋳込まれ、そのまま通貨として流通しました

 

1185万円のインゴット 意外に安いかも… てか、金が高くなりすぎ!

 

散策マップ 東西3km余りの広いエリに見どころが散在しています

 

 世界遺産センターでの予備学習を終えて、散策に移ります。

しかし、広大なエリアに及ぶので、ポイントを絞って見学したいと思います。

 

 ①同行者が老人で脚が弱いので長くは歩けない、自転車も乗れない 

 ②実際に採掘していた間歩(坑道)には最優先で入りたい

 ③精錬施設の遺構も見たい

 ④鉱山で繁栄した街並みは歩いて散策したい

以上の要件をセンターの案内嬢(現役)に相談して、歩き方を提案して貰いました。

 

 そして優しく提案して貰ったプランが…

 ①マイカーでBの銀山公園駐車場へ移動

 ②BからAへ、伝統的建築群保存エリアを歩いて散策

 ③Aにある銀山カート乗り場から電動カートでCの龍源寺間歩へ移動

 ④龍源寺間歩(坑道)を見学

 ⑤CからBまで鉱山遺構のある遊歩道を徒歩で散策

 

よし、それで行こう!

 

銀山公園駐車場 銀山エリアの中間にあり、拠点にうってつけ

 

大森の旧い町並みは約1km

 

石州瓦特有の赤茶色で統一された家並みです

 

天領の行灯は全戸統一みたい  金森家は地域の大商人でした(県史跡)

 

二階の妻側の小窓は、お蚕さんか?

 

街並み交流センター(公民館)は、旧大森区裁判所の旧い建物を流用しています

 

日蓮宗妙蓮寺

 

 

 石見銀山の最盛期には、この大森町は20万人の人が住んでいた…という話もあります。 平地面積からして些か無理な気もしますが、鉱夫だけでなく、精錬職人や鉱脈を探す山師、鉱山経営を管理する役人、工具を鍛える鍛冶師、炭薪を作る農夫、残土砂を処理する工夫など、ありとあらゆる人達が集っていた訳ですから、さぞ賑わっていた事でしょうね。

 

 鉱山となると落盤や出水による事故も多く、その分お寺の数も多く見受けられます。 

その中で妙蓮寺という小さな日蓮寺院で意外な名前を見つけました。

45代大森代官:阿久沢修理がその人で、墓所になっていました。

 阿久沢氏とは、群馬のみどり市で深沢城を訪ねた際に初めて知った氏族です。

平安時代に蝦夷討伐が行われた際、京に護送される阿弖流為を慕ってついて来た蝦夷の民衆が多く居り、上野まで来て阿弖流為の説得により引き返したのですが、一部は諦めきれずに渡良瀬渓谷に定住しました。

その中で、得意の鉱山技術で豪族になったのが阿久沢氏でした。

 戦国末期には北条氏に仕え、小田原の役で敗れ上野で帰農した…という結末でしたが、鉱山つながりで徳川幕府に登用され、石見国で生き残っていたのですね。

深沢城址の姿を思い起こし、しばし感慨です。

 

 

こちらは浄土真宗西性寺

 

金森家と並ぶ大商家の熊谷家(重文)

 

大森代官所長屋門

 

いも代官ミュージアム(代官所本殿)

 

 対明や南蛮貿易で戦国大名の懐を潤した石見の銀でしたが、関ケ原直後の徳川家康は、此処に絶対的エースの大久保長安を送り込み、更なる開発・増産を試みます。

長安の肩書は『石見銀山奉行』であり、周辺に5万石の銀山領を与えられ、急ピッチで開発を進めました。

 産出のピークは慶長~寛永年間で、年4~5千貫であったそうです。

その後は産出量は次第に減少し、延宝3年に奉行職は代官職に格下げされました。

いずれもその拠点は現:大森代官所跡であった様です。

 

 『いも代官』という別称は、19代代官の井戸平左衛門正明が享保の大飢饉に際して、薩摩からサツマイモを取り寄せて普及させ、領民の窮状を救った事に由来します。

 

 

ぎんざんカート しまね観光ナビより借用

 

 町屋エリアの散策を終えて、次は坑道に入れる『龍源寺間歩』まで約3kmをカートで移動します。

しかし、カート乗り場で乗車を申し込むと、次の便までは50分待ちだそうです。

乗車予約をしといて、代官所と熊谷家を観て時間を潰そう… と思ったら、『先着順だから出発まで必ず此処に居てください』との事。

貴重な小一時間をベンチに座って無為に過ごす羽目になりました。

このシステム、絶対おかしいでしょう?

 

 それでもスマホで検索していたら、『カートの運転手が街並みを色々解説してくれて、楽しい道中でした…』といったカキコミも見られました。

 そして時刻になりカートがやって来て乗車します。

まず運転手から注意事項の説明があり、乗車マナーの説明があります。

そして、『走行中は気が散るので運転手には一切話しかけないで下さい、解説を希望する人は別途ガイドが居るので、そちらを雇ってください!』との事でした。

確かに約10分間の道中、終始無言で運転に集中していましたね…。

個人差かも知れませんが、Product outの極致ですね。

 

辺りに点在する間歩(坑道)入口の跡

 

間歩の数は600以上有るそうです

 

観光用に開放されている唯一の龍源寺間歩の入り口 近づくと強い冷気が出ています

 

坑内は天井が低く(170㎝ほど)、背を屈めた忍者歩きを余儀なくされますが、床面は観光用に削平されています

 

脇に何か所もある採掘鉱は狭く、這って移動するしか無さそう! 鉱夫は小柄な事が条件ですね

 

こんな姿勢での連日の作業は、さぞかし寿命を縮めた事でしょう

 

 気を取り直して、一番楽しみにしていた間歩に入って見ます。

石見銀山は山の岩肌に露出した銀鉱石を見つけて、鉱脈を探しながら掘り進んでいくやり方なので、至る所に試掘の間歩があります。

そして鉱脈を探し当てて掘り進んだのが正式な間歩なんですね。

 その中で、龍源寺間歩と呼ばれる坑道だけが観光用に整備され、通年解放されているのです。

 入る時は『冷凍庫?』と思うくらい寒さを感じますが、中に入って暫くすると適温です。これは鍾乳洞と同じですね。

 もう一つ、大久保間歩という大きな坑道が期日限定でガイドツアーをやっていますが、こちらは探検要素が強く、装備と体力も要るので老人向けではありません。

 

 

外気の取り入れと水と燈明の煙を抜くための縦坑です

 

壁面の鑿跡

 

採掘坑の奥に光る部位が有りましたが、よくよく見ると水滴の反射でした。

 

間歩は200mほど続くと柵で閉じられ、左手に外へと続く観光用のトンネルが作られていました

 

外に出ました。 また酷暑の現実へと逆戻りです


 鉱山の様な産業は、坑内現場での採掘作業が即ち出来高であり、周辺の補助業務で生産性が左右されるものではありません。

そう考えると銀鉱石のみを最小労働で掘り出すには、時代を考えればシロアリ方式しか無かったのかなぁ…。

にしても、想像を絶する過酷な労働環境です。

まさに、人類の文化遺産ですね。

 

 龍源寺間歩からは同行者をカート便*で駐車場まで戻し、自らは遊歩道2.3kmを歩いて、清水谷精錬所跡に寄ってから駐車場に戻り合流します。

*帰りのカートの運転手は陽気な方で、ワイワイ楽しく喋りながらの帰路だったそうです ちょっと安心

 

 

清水谷精錬所跡 カメラのバッテリー切れでスマホ画像です 失礼

 

なるほど、見慣れた鉱山施設ですね

 

 

 石見銀山での銀の採掘は江戸末期には殆ど採れなくなっており、替りに銅を産出する銅山で命脈を繋いでいましたが、明治維新を迎えると経営権が太政官布告で民間に払い下げられてしまいます。

その後も所有権は民間人の間を転々とし、その都度再開発が試みられるも採掘量は上がらず、昭和18年についに閉山となってしまいました。

 

 

 事前準備の無い突発の訪問で、城歩きと違って何をどう観るかの観点もなく、取り留めのない内容になってしまいました。

今になって思えば、代官や大商人などの思考・運営方針などが判れば、もっと斬り込めたのに…。

いも代官ミュージアムと熊谷家住宅は入っておくべきでした。