『広永城』四日市市広永町北永台

 

 次に訪ねるのは四日市市広永町にあった広永城址で、北勢四十八家のひとつ、横瀬家の居城です。

 

 横瀬家は“十ヶ所人数”の一人とされます。

十ヶ所人数とは、朝明郡を中心に有った十ヶ所の伊勢神宮御厨の代官を室町幕府から指名された幕府奉公衆で、北伊勢では八家が務めていました。

 横瀬氏といえば、新田岩松氏の家臣で後に由良氏を名乗った上野国の戦国大名:横瀬氏が有名ですが、伊勢の横瀬家の出自はよく判っていません。

しかしながら、広永城の古絵図には城主として『横瀬上野』と書かれているので、幕命で上野から赴任して来た横瀬一族のひとりなのかも知れません。

 

蒔田から旧東海道でさらに北上します

 

沿道に何やら顕彰碑がありました

 

一般には無名でも、こうして徳行を称える碑が残される文化ってイイですよね

 

朝明川を渡ります 伊勢湾岸道高架の手前で左折

 

朝明川堤防を歩きます 遠方には御在所岳

 

 広永城は、朝明川の北に続く小高い丘陵地帯の南端に築かれた丘城ですが、昭和30年代から住宅団地が造成され、まっ平に削られて城郭遺構はほぼ全て消滅した…と言われていますから、かなり手強い城址です。

 地方の小豪族や小城の遺構がまだ相対価値の低かった時代、学術調査も無いままに削り取られ、埋められて住宅地に変わってしまった様です。

 

 しかし幸いこの城には古絵図が現存するし、明治期の地形図にも城郭の名残りが見える気がするので、現状の地形と照合して歩き、在りし日の広永城をイメージしてみたいと思います。

 

現状写真 Googleの城址表示では高速道路で消滅した様にも見えますが、城郭は住宅団地全体に広がっていた様です 雲を掴むような話ですねあせる

 

広永城古絵図 右上が西なので、左に135度回転させる感じ…あせる

 

今昔マップ1 明治24年はまだ曲輪の削平形状と範囲がそのまま判ります

 

今昔マップ2 左の曲輪痕を現代の図に重ねて見ます

 

 広永城の外郭がほぼ見えて来ましたね。

個々の郭の配置や堀・土塁形状などは如何ともし難いですが、外郭沿いに何か所かは、痕跡を探せそうな場所も有るので、順次歩いて観て行きます。

 ➊大手道

 ❷大手虎口、枡形、馬出しなど

 ❸搦め手形状

 ❹北端堀切り

 ❺土塁跡

 ❻Googleマップ城跡表示地点

 ❼最高地点(50m)

 ➑主郭南端からの見通し

 

 図中卍表示の浄泉寺。 この脇から登って行く道が明治の地図にも見られ、現在も幹線道路となっているので、当時も➊大手道ではなかったかと感じます。

 

 

 道の両側に階段状に小郭を重ねて、虎口の守りを固めていた…という想像なのですが、宅地化が進んで決め手になりそうな痕跡が見つかりません。

 

 

そうこうしてる間に、すぐに登り切ってしまいました。

う~ん。

 

 

 

 上から下界(城下)を見渡して見ますが、これといった発見は有りませんね…。

それよりも、こうした崖端の地取りの城の割に随分低いなぁ…という印象を受けます。

 

 

 

 ❷大手虎口、枡形、馬出し に来ました。

城外に向けて一段低くなった地形が遺っているのが判りますね♪

絵図でも大手には小郭を梯郭に重ねて虎口を守っている様に見えるので、ちょっと期待しましたが、斜面には想像以上に竹が生い茂り、肉眼でも何が何だか…状態。

❸搦め手形状 地点も同じ状況でした。端っこの住人は相当に竹に苦労してそう。

 

 

 

❹北端堀切り です。

現代図で49.5mの最高所となっている場所ですね。

ここには横堀が走り、土橋で北の台地と繋がっていた筈ですが、現在は水戸城もビックリな程に超巨大化して、堀底道が8車線の高速道路に発展進化していましたびっくり

 

 土橋の手前を固めていたであろう高土塁ももちろん影も形もありません。

しかし、高速道路の側道が造られているラインはひょっとしたら横堀跡かも…。

 

 ここから南方向を見ると、住宅団地ですから緩やかに下った雛壇に造成されていますね。

…という事は。

 

 

 

 

 

 ❺土塁跡 に来ました。

住宅の裏に分譲してない余白のスペースがあり、ほんの少しですが2mほどの土盛りの痕が見えます。

入って行って斜面を覗くと、緩傾斜から急に立ち上がる斜面形状が視認できました。

この上に2mの土塁を廻らせれば、守れます。

 ここが唯一の残存遺構で、敢えて遺したとしたら、“四日市市役所土木課の良心”なのかも知れませんね爆  笑

 

 

 

 

 ❻Googleマップ城跡表示地点 です。

ここは合成図でも判る様に、郭内から外れた山の緩斜面で、邪魔にならない場所に適当にマーキングしただけの様です。

 

 

 

 

 ❼最高地点(50m)、明治期の地図に50と標記されてる当時の最高地点です。

この南の堀に囲まれた円形の郭が主郭だった…と目されており、二ノ郭から渡る土橋の辺りですね。

北側を振り返ると、雛壇になって緩やかに下がって来ています。

 この場所の標高を測ってみると、なんと37.5mと出ましたガーンあせる

団地内がほぼ平坦なのを勘案すると、南端で12.5mもの深さに郭塁がゴッソリ削り取られ、その土砂で堀や谷を埋めて平坦に造成された事が解かります。

 

 

 

 

 ➑主郭南端からの見通し です。

当然ながら、12.5mも低ければ視点は別物で、何も見えませんし、容赦なく矢弾が飛んできそうな危険な主郭ですね。

 

 

 

 広永城跡の団地からの坂を下りながら振り返り、この倍の高さの土塁の姿をイメージしてみますが、なかなかピンと来ません。

これだけ壊変されると、自分の想像を証明する材料などほぼ皆無で、脳内復元も困難ですね。

 やや失意のうちの下城となりましたあせる

 

 

東側から振り返って見る広永城址

 

 

次は疋田家、埋縄城址へ向かいます。

 

 

【追記】

 捨てる神あれば拾う神ありで、後刻に朝日町の歴史博物館で朝日町史を漁っているとき、思いがけず広永城の調査資料を発見しましたびっくり

 

 広永城がある台地の東斜面は朝日町地内なのだそうで、高速道路は朝日町を走っているのです。

伊勢湾岸道の起工に先立ち地盤調査した際に、多くの遺跡が見つかって学術調査したところ、明らかに広永城の一部と思われる遺構が出てきました。

 その際に奇特な学者(学芸員さん?)が越境して全体の調査を掛けたそうで、その結果が下図の様にまとめられていました。

 

 

 う~ん、大枠では、ほぼ私案が公的に立証された…事にはならんか爆  笑あせる