以前に、戦国時代に伊勢北部に蟠踞した小豪族群=北勢四十八家について取り上げ、当時はやりのアイドルグループ風に『HKS48考察』…とふざけたタイトルでシリーズを始めました。
グループの主要な八家については居城跡を訪ねてブログ投稿していましたが、その後はサボって8年余り手が付いてなかった次第です。
しかし、久々に再開しようかと関連資料を検索してみると、10年前に≪前説≫からUPを始めた際の仮データが他ブログに流用され(無断で)、あたかも基礎資料みたいに掲示されていて、『こりゃイカン』と驚愕しました![]()
精度の低いデータを並べ『こんな感じ…』という感覚で注釈も無く気楽に載せたのが誤りだったのですが、一人歩きしてしまう懸念があるので、その訂正がてら、早々に再開します。
この一覧図は個人で資料を漁って仮まとめしたメモ程度のものであり、資料レベルには達していません。 順次精度を上げて改廃していくつもりですが、活用される際には“参考”の範囲に留めてください。
…という事で、 取り急ぎ始めます。
時節柄、山城へのアプローチには何かと障害が多いので、当面は“人里にある城跡”に重点を置き、四日市~桑名の平野部を廻ります。
どれも宅地開発の波に洗われ、遺構の殆ど残らない城ばかりなんですが、僅かな資料を繋ぎ合わせて脳内復元するのもまた、醍醐味ですから![]()
『蒔田城』四日市市蒔田2丁目13
今回は市街地中心という事で、駐車場探しに困難が予想されるため、身軽な電車+徒歩でアプローチします。
JR関西線の富田駅で下車し、旧東海道で朝日駅まで辿ります。
旧東海道と言っても、この辺りは沿道に民家が途切れる事はなく、昔の風情を残す場所もほぼ無くなっています。
桑名~四日市の東海道が広い新道に代わるのは維新後70年も経った戦争直前の事なので、交通量を考えると、そら沿道の景色も変わりますわなぁ![]()
1.5kmほど歩いて、蒔田(まいた)地区に入ります。
旧蒔田村は西隣の大矢知村と合併して大矢知町だった時期もあり、名産の“大矢知そうめん”の製麵所が沢山ありますね。
ほどなく左手に『長命寺』というお寺が現れます。
東海道から見る長命寺
真宗の寺らしく、立派な山門でちょっと派手な構え
周囲を水堀が巻いています
真宗本願寺派の寺で、水堀に囲まれた豪勢なお寺なんですが、創建は慶安4年(1654)の事で、桑名藩主:松平氏よりこの地所を賜っての創建だそうです。
それ以前のこの地には戦国末期まで蒔田城(まいたじょう)という城が有った様で、寿永年間(1182~1185)に伊勢平氏の富田家資(進士三郎)が築城しました。
そう言えば、中世の武家居館の風情でもありますが、城としては外堀と外郭を持ち、300m四方程の当時としては大きな規模だった様ですね。
堀幅は約4m、水深は0.5mくらい 石垣は最近のものですね
鐘楼の土段はかつての土塁を思わせる作り 物見櫓跡か?
巽(東南)の角部
平家が滅んだ後のこの地は後白河法皇の御料地となり、都より官吏の藤原宗勝が赴任して、蒔田城を拠点に管理した様です。
宗勝はその後姓を土地の蒔田に改め、蒔田宗勝として地頭~国人化して行ったのでしょうね。
戦国時代になって、蒔田を支配していたのは春日部家でした。
春日部家はHKS48でも3番目に取り上げた氏族で、萱生城、伊坂城、星川城の3城を持つ『有力な氏族…』と紹介しましたが、さらにもう1城持っていた事が判りました。
織田信長の伊勢侵攻が始まった時の城主は『春日部家春』と記録されており、手持ちの系図には無い名前なのですが、“家”を通字にしているのは萱生城の春日部宗家なので、その一族かと思われます。
長命寺本堂
堀の水には流れがあり、大きな錦鯉がたくさん居ます イタチは居ないのかな?
丑寅(北東)の角 周囲の地面高から、道路も含め堀だったのでは?
堀は北面にも続いていますが、石垣が無くなった…
北勢四十八家には周辺の戦国大名からの圧迫も続き、尾張の織田氏以前には南伊勢の北畠氏vs近江の六角氏が主導権争いを繰り広げています。
春日部家は北畠氏の与党だったそうですが、冒頭の分布図でも判るように、領地が内陸部だったので、伊勢湾岸の地を手に入れて拠点を確保する必要があったのでしょうね。
その辺の経緯や時期などは不明で、想像で組み立てるしかないのですが、蒔田城は萱生城の支城で前線拠点の機能だった事が覗えます。

堀と道路を挟んだ北隣の宝性寺は副郭の跡か?
堀は西側にも続きますが、こちらはポケットパークになっていました 檀家さんが整備してるのかな?
なかなかに、遊び心があります
西側は土塁のままでしたが、塁壁はありません
矢竹の藪が城跡を物語る物的証拠です
さて、蒔田城の概要の考察ですが、長命寺の敷地は一辺約65mのほぼ正方形ですから、適度な広さなので、ここがそのまま主郭もしくは館跡と考えられます。
おそらく高さ2~3mの土塁が巻いていた事でしょうね。
その外には幅4m程度の水堀がグルリ廻っていますが、これは深さも無いので寺格の装飾的に残されたものの様です。
堀の水源は周辺に張り巡らされた排水路と繋がっているので、雨水の処理目的を兼ねていますね。
堀の外側には西側を除く三方に幅4mの道路が作られています。
その外側との段差を踏まえると、堀と道路の計8m幅が当時の内堀の規模で、土塁を崩して堀を埋めたのが道路になっているのでしょう。
堀はたぶん素掘りの空堀ですが、海抜4mほどの低湿地帯ですから、底には常に水が溜まった“泥沼”状態だったと思います。
寺の西をJR関西線が走り、土盛で見通せませんが、高低差なく平地の様です。 当時は泥湿地もしくは湿田でしょうから、天然の防塁です
広い宝性寺境内と奥に鎮座する御厨神明神社

近郷の村社で、『マイタケ神社』で親しまれているそうな
“村神様”やね
家主の宝性寺を見落としそうですが、大きくはないものの、四日市市の有形文化財です。 一益に焼かれた後、文化10年(1814)に再建されました
長命寺の北隣には龍王山 宝性寺という寺があり、広い境内には御厨神明神社も併設されていて、どちらも創建は奈良時代まで遡る様ですから、蒔田城よりも古いのです。
おそらく平家資が宝性寺を庇護する形で隣に館を構え、春日部家の時代には寺社も蒔田城の一郭として取り込み、機能させていた事が覗えますね。
永禄10年(1567)から始まった織田信長の伊勢侵攻では、春日部重春は萱生城の春日部宗家に従いました。
“面従腹背”で時に戦い、時に服属を繰り返した春日部家でしたが、天正元年(1573)の長島一揆攻めの前哨戦では滝川一益勢の総攻撃を受けて遂に落城降伏し、城を開け渡す事となりました。
蒔田城と宝性寺もこの戦いで灰燼に帰した様です。
『今昔マップ』で見る明治24年と現在 集落の周りはほぼ水田なので、城域はそう広くはなかった様ですね。
次は横瀬氏の広永城跡を訪ねます。




















