晩秋の山々を染めていた木の葉も落ちて、いよいよ山城シーズン到来ですね。

風も弱く快晴に恵まれた土曜日、伊賀の比自山城に登城して来ました。


 7年前の秋、『天正伊賀の乱』の戦跡を歩いた際に一度チャレンジした城址ですが、史跡整備対象外の手付かずで藪がひどく、縄張りも不明で先達の情報もほぼ無かった為に、入口で断念した“幻の城”でした。

 

 その後伊賀市の学芸員さんと話す機会が有って、『近々に整備される…』言質を得ており、登城記事もぼちぼち見られる様になったので、満を持しての登城です。

 

 

伊賀の城 比自山城 三重県 登城日2025.12.13

 

 別名    比自山砦

 城郭形式  連郭式山城

 標高/比高    286m/144m

 築城年   天正9年(1581)

 廃城年   同上

 城主    百田藤兵衛、福喜多将監など伊賀衆

 残存遺構  土塁、堀切、郭

 文化財指定 なし

 所在地   三重県伊賀市長田 比自山

 

 

 比自山城は天正9年の“第二次 天正伊賀の乱”の際に、伊賀北部の郷士と一族郎党、近郷の百姓など1万人が築城して籠り、包囲した織田軍4万と果敢に交戦し、変幻自在な攻撃で織田軍に多大な損害を与えた唯一の“勝ち戦”の城です。

 

 城は既設のものではなく、山上の観音寺(廃寺)跡を中心にし、周囲に短期間で郭塁と防柵を構築して、城砦化した“仮設の城”だったと言われます。

 

比自山東麓にある『芭蕉の森公園』

 

比自山城の説明看板 基本情報です

 

初めて見る縄張り図 想像以上に本格的です

 

芭蕉の句碑を見ながら散策する『芭蕉の森公園』

 

その外れに隣接する『百田藤兵衛城址』 ここから直登

 

 比自山東麓の北部、長田小学校の北側にある『芭蕉の森公園』、今回もここに車を駐車してアプローチします。

ここに比自山城の縄張り図入り説明看板が新たに設置されていました。

新たに測量、整備された縄張り図の様で、 ざっと700m×400mの想像以上に広大で“俄か城”にしては本格的な城郭に見えますが… ちょっと嫌な予感爆  笑

 

 そして肝心のアプローチ経路に関しては、何の記述・案内も無いので、今後徐々に整備…という事か

ともかく、前回断念した『百田藤兵衛城址』まで行って直登します。

 百田藤兵衛はこの地の土豪(中忍)で、比自山城築城の主メンバーなので、自城との何らかの関連付けをするでしょうし。

 

方向を見失わない様に、倒竹をかき分けて進みますが

 

結局、獣道が頼りです

 

ダム痕 水の手?灌漑用?

 

竪堀か? 自然の水流路みたいです

 

尾根が近付いてきました

 

尾根の平場に出ました 果たしてここは何処?

 

 

 百田藤兵衛の気持ちになって、あれこれ考えながら登って行きます(^^;

織田の大軍を迎えて華々しく討死にし、後世に名を遺すだけなら麓の自身の城館でも可能だし、一矢報いるなら平楽寺(現上野城)の僧兵に合流する道もあったでしょう。 

 敢えてこの比自山に籠ると決めたからには、“勝つ”あるいは“負けない”事が前提だった筈です。

 

 では、この山坂を攻め登る敵兵を如何にして止めるのか…。

直感で思い浮かんだのが、ふんだんに有る雑木を伐って逆茂木に並べ、これもふんだんに有る竹材で幾重にも柵を穿てば、上から矢玉や石が降って来る中、突破するのは容易ではないな… という感想です。

 

 結局、城館からの道は判らなかったものの、そうこうしてる内に尾根の平場に到着しました。

さて、ここが何処なのか? 縄張り図とにらめっこして予測してみます。

 

 

 

平場はBエリア最北の武者溜りの曲輪か?

 

東側斜面に心なしか犬走りの痕跡

 

西側斜面には明瞭な犬走り

 

すると、これが西に落ちる竪堀か?

 

北側堀切

 

その北側も平坦な尾根続きなので、もう少し進んで見ると…

 

堀切がありました。 これは見なかった事にしよう(^^;

 

 

 登り切った平場は300坪はある広い曲輪ですが、削平は殆ど無い北流れの自然地形でした。そんな場所を図上で探すと、Bエリア最北の曲輪しかありません。

 それを検証する様に、周囲の造形遺構を見て廻るとほぼ裏付けられるので、間違いありません。

しかし…長年の風雨に崩落・埋没してる筈ですが、予想外に良く遺っている事に驚きです。

 裏を返せば、それだけシッカリ造り込まれた城だったという事ですね。

急造の砦説… また悩むえー

 

 比自山城は廃寺だった観音寺跡を本丸にして、南北に郭塁を追加して強化した城で、南の郭を“朝屋丸”と呼び福喜多将監が守り、北の郭を“長田丸”と呼んで百田藤兵衛をはじめ長田衆が守ったそうですから、まさに此処が百田藤兵衛の作品な訳ですね。

 

 

一条目の横堀 かなり明瞭です

 

その奥は緩斜面の平場が続きます

 

堀の東端はちょっと複雑な造形

 

堀を渡った出丸の先端

 

西の犬走りは帯曲輪状の広さ

 

二条目の横堀はさらに明瞭 段差も凄い

 

土塁上から 段差は4mほど

 

壇上が最高所で土塁を巻いた主郭機能になっています

 

土塁の南東部分が物見台になっていて、ここに井楼があった事でしょう

 

南側の横堀と土塁 こちらは少し緩やか

 

 此処までが急遽造り足されたBエリア(長田丸)だと思います。

しかし、1万人近い人が籠城したとはいえ、これだけの土工事を数日でやり切るとは、とんでもないパワー、集中力です。

まだ見ていないCエリア(朝屋丸)もあるし、逆茂木・防柵や投石集めなど考えると尚更ですね。

 

 続いて、本丸と言われるAエリアを見て行きます。

 

本丸は古くからこの山にあった観音寺という寺院を転用したと言われますが、出土品の年代測定から、天正伊賀の乱の時点ではもう廃寺になっていた可能性が高い様です。

縄張り図でも判る様に、広大な削平地があり、本堂だけでなく幾つもの伽藍を有した大きな寺院だった様ですね。

 

 

 

長田丸から本堂裏の切岸までは緩斜面が続きます

 

その東端に高台があるので、物見台かと思えば…

 

此処が比自山の山頂の様です 大きな五輪塔の“地輪”があるので、住職の墓所だった場所かも知れませんね

 

本堂跡と思われる広い削平地 ですが、藪でよく判りません

 

南に隣接する削平地(僧坊跡?)も凄い藪びっくり

 

山門跡と思われる南からの参道

 

一歩踏み込むと… 何人も寄せ付けない勢いの藪ですゲッソリ

 

 戦時の本丸(本堂跡)は非戦闘員の避難場所だったと思うのですが、土地が肥えているのか、これだけ藪が繁っていては偲ぶよすがも有りません。

※ここでボールペン落としたけど見つからなかった

 

 柿の木があったし、近年まで農地として使われていたのかも知れませんね。

 

 

さらに見どころ満載の≪後編≫に続きます