日本200名城のうち、東海地区で唯一未登城だった大垣城に登城して来ました。
織豊期の表舞台に度々登場する準メジャーな城ですが、なぜ今まで未登城だったのか…、中途半端な保全整備などが情報で間接的に伝わり、“残念な城”として後回しになっていたと思います。
日本200名城 №144 大垣城 岐阜県 登城日:2025.9.8
別名 麋城、巨鹿城
城郭構造 連郭輪郭複合式平城
天守構造 層塔型4重4階(1959年外観復元)
築城年 明応9年(1500)*異説あり
築城主 竹越尚綱*異説あり
主な改修者 氏家卜全、一柳直末、伊藤祐盛、松平忠良、戸田氏鉄など
歴代城主 竹腰氏、氏家氏、伊藤氏、岡部氏、石川氏、久松松平氏、戸田氏など
廃城年 明治4年(1871)
遺構 石垣、曲輪
復元建物 天守、櫓、城門
文化財指定 市指定史跡
所在地 岐阜県大垣市郭町2丁目
大垣城は畿内と東国の境である“不破の関”の東側入口のあり、古代から平時・有事を問わず陸運、水運ともに要衝の地にあります。
しかし、築城年代が浅いのは、戦術的な平城の運用時期と治水・築城技術の問題なのかな?…と思ったりします。
大垣城が最初に築かれたのは明応9年(1500)、竹越尚綱による説と、天文4年(1535)宮川安定による説があります。
いずれも美濃守護土岐氏の被官であり、 土岐氏の地域支配の拠点として砦程度の規模ではなかったか…と言われています。
専用パーキングの無い大垣城 民間のコインパーキングに駐めて訪ねます
現地看板の縄張り図 4重の堀を持つ輪郭の広大な城ですが、大垣公園で残存するのは□範囲のみで、他は市街化に消えています
残存度が少ないので、まず郷土館(資料館)に行って往時の姿をイメージします
戸田氏の甲冑展示 右は戸田一西が上田合戦で着用、左は戸田氏鉄が大坂の陣に着用したもの
美濃の支配者が斎藤氏に替わり、隣接する尾張の織田氏と争う様になると、大垣はその係争地となり、一時は織田一族が城主になったりしますが、斎藤氏が重臣の氏家直元(卜全)を城主に据えると“氏家氏の城”で安定します。
直元は堀を二重にして城域を拡張し、郭や櫓を増築して“本格的な戦国の城” に改修しました。
その後直元は主君を織田信長に鞍替えしますが、織田政権を通じて大垣城は氏家氏の居城でした。
お目当てのジオラマ 戸田氏鉄の改修後(江戸初期)を模しています 実戦的な立派な城ですよね
内堀内の本丸と二ノ丸は連郭で、ほぼ二重の堀に囲まれています 本丸へは二ノ丸を通らないと行けません 水の手の心配は無いし、長期籠城向きですね
南大手口の枡形門 枡形が大きいのは積極防御の馬出し機能も有るという事
『袋丸』というダミーの虎口 乱入した敵を挟撃する為の出丸としても使え、これ効いています
用兵に長けた築城者なのが判りますね
三ノ丸大手門の二重枡形 大小の枡形が連続し、突破には大きな損害が出そう 枡形の左側に櫓が有れば完璧。
竹ノ丸虎口への土橋 攻め込む敵兵が丸裸になってしまうキルポイントです 左の櫓が効いています
『本能寺の変』、『清須会議』、『賤ヶ岳の戦』後の天正11年(1583)、城主は池田恒興に替わります。
岐阜城+大垣城の15万石での入封でしたが、信長との縁も深い恒興は、岐阜城の使用は躊躇い、もっぱら大垣城を居城としたそうです。
豊臣政権下で池田氏が三河吉田城に移ると、大垣城には秀吉の一族や直臣が入ります。
天正12年(1584) 三好孫七郎秀次(豊臣秀次)
同年 木下美濃守秀長(豊臣秀長)
天正13年(1585) 加藤左内光泰
同年 一柳伊豆守直末
天正17年(1589) 羽柴左近衛権少将秀勝(信長の四男)
…と、相当な顔ぶれの豊臣大名が短期間に入れ替わっています。
おそらくこの時期に、大垣城はより豪華な城へと変貌して行った事が窺われますね。
ジオラマで名城具合が判ったので、遺構が遺る本丸エリアを歩いてみます 本丸は天守と多聞で囲む天守曲輪と、その周囲を守る帯曲輪の2段構造の様です(現地看板)
二ノ丸からは廊下橋で内堀を渡り、鉄門で郭内に入ります 内堀は完全に埋められてイメージしにくいですが、虎口はこの1ヵ所のみです
鉄門の礎石がありました ジオラマでは渡り櫓門でしたね
鉄門とセットで虎口を守る辰巳櫓台 石材は相当に散逸しています
辰巳櫓の北側に隣接した東埋門跡 天守曲輪へはこうした簡易の埋門(2ヶ所)で出入りした様ですが、石材が無くなり原型を留めていません
秀勝病没後の天正18年(1580)、新たに城主になったのは土岐氏以来の美濃の郷士:伊藤祐盛で、3万石での入封でした。
以後、伊藤氏は2代10年にわたり大垣を支配しますが、この間に大垣城は更に強化拡張され、本丸には初めて天守(三層三階)が建てられた様です。
伊藤氏最末年の慶長5年(1600)に起きた“関ヶ原の戦”にあたり、前哨戦で石田三成率いる西軍2万余が中心拠点として入城したのが大垣城ですから、それだけのキャパと防戦機能を持つ巨城になっていた…という事でしょうね。
天守曲輪と帯曲輪の段差は総石垣で葺かれています この上には多聞櫓がズラリ並んでいました (手前の通路は近年の改変)
相当に石を動かした形跡があるので、石垣はもっと高かったと思います
現在の正門になっている東埋門 本来ここに門は無く、他の郭から移設した現存遺構…という説もありますが、確認できませんでした 埋門にしては内庭が広く、考証は曖昧かも(何でどう埋める?)
東埋門を外側から 本来は内堀だった門前間際まで民家が迫り、戦後の都市計画の考え方がよく判る場所です
東埋門の右手には外観復元の丑寅櫓 街に溶け込んでいますね(^^;
徳川政権になっても大垣城は、桑名城、加納城などと同様に名古屋城の衛星的な拠点として重視され、主要な譜代大名が5万石規模で配されます。
慶長14年(1609)に城主となった石川忠総は総堀(外堀)を開削して城域を確定し、元和2年(1616)に入った松平(久松)忠良は三階天守を四層四階の層塔型天守に建て替えました。
その天守が近代まで遺り、現在の外観復元天守の元となっている訳ですね。
天守附多聞脇から水の手門へと続く通路も遺構を破壊して造られています
復興の乾櫓と南附櫓の脇にある水の手門跡 舟に乗る非常用門だから、もっとコンパクトだった筈?
天守西面 由緒ある綺麗な名城なのに、イマイチそう見えないのが哀しいところ…
石材は少量の花崗岩、安山岩が有るものの、主に石灰岩が野面乱積みされていますね。 10万石の城のリアリティ👍
寛永12年(1635)に摂津尼崎から戸田氏鉄(うじかね)が10万石で移封して来ると、以後は戸田氏が11代繋いで明治に至ります。
氏鉄は武勇に加え築城術にも長けていた様で、本丸周辺の総石垣化や主要門の枡形整備など、近代城郭の名城への進展に寄与しました。
四重もの堀が輪郭に展開する見事な水城の景観はこの氏鉄により完成されたもので、現在の大垣城でも特にこの氏鉄が顕彰されていますね。
天守内に入りました 内部は展示室で、甲冑や武器、図表の展示が主で、関ヶ原の戦の資料が充実しています
焼失した木造天守のイラスト 実測図があって、木造復元を望む声も少し出ている様です
おや? 最上階の窓の大きさが…(^^;
北東の眺望 中央奥の山が岐阜城金華山
北西の眺望 中央遠方の山が伊吹山 平城にとって高層天守が生命線なのが良く判りますね
廃城令により廃城となった大垣城は、建物・石垣などが競売に付されて解体されましたが、それでも本丸の天守と隅櫓はその優美さゆえに遺され、昭和初年には国宝にも指定されました。
しかし、昭和20年7月の大垣空襲ですべて焼失してしまいます。
終戦後に焼け野原となった大垣の町は、新たな都市計画の元に復興されます。
しかしその計画に大垣城の存在は希薄だった様で、本丸周辺の内堀はすべて埋められて商業地となり、石垣の隣にまで商業ビルが建てられて城址を埋没させています。
西門から外(内堀)に出ます ここにも門は無く見学者用新造門ですが、こちらは埋門の形式をシッカリ造っています
外から見ると、なるほど! 門がアクセントになって、観光ポスターになりそうな配置ですね(お金の使い方が違う様な…)
戸田氏鉄像と天守 西側は公園広場として公用地で維持されているので、宇都宮城みたいに半分復元は比較的容易かも
公園の西端には竹ノ丸の土塁遺構が一部遺っていました
水都大垣を象徴する水門川の運河は、大垣城外堀遺構だそうです
蔵書より:明治初年の大垣城古写真 破却前の本丸と二ノ丸を西側から
いつの日か、こんな景観を取り戻せたらいいですね
その後に天守と隅櫓2基がRC造で外観復元されていますが、周囲の景観があまりにも変わり過ぎているので、どうもシックリ来ません。
それに輪をかける様に、何もなかった場所に立派な櫓門が3基も造られているのも、文化財的価値を大きく損なっている所ですね。
周辺の市街地を見て廻りましたが、商業地としてはもう老齢化して、空洞化も進んでいる様に見受けられます。
この機に再開発を企図して、内堀の内側(本丸と二ノ丸、水堀)を復元するなんてのはどうでしょうか?
信州松本城にも負けない優美な“水城”の景観が現出すると思うのですが…。
了