次いで訪ねたのは知多大野城です。

実際には“大野城”のみの城名ですが、越前に同名の続100名城が有る様にありふれた名で、同じ尾張国でも海部郡に同名の城がありますから、“知多大野城”と表記します。

 

 

尾張の城  知多大野城  登城日:2023.01.04

 

 

別名       宮山城
城郭構造     梯郭式平山城

標高/比高  49m/35m
築城年   室町初期
築城主     一色範光
主な城主    佐治氏

廃城年       天正12年(1584)
遺構          土塁、空堀、曲輪
指定文化財 常滑市指定史跡
再建造物    模擬天守

所在地   愛知県常滑市金山字桜台

 

 

 大草城から南へ1.3km、実走2㎞の至近距離に大野城址があります。

大草城と同様に、山上の主郭部に天守を模した展望塔があるので、見付けやすい城址です。

 

 大野城の始まりは室町期の観応の擾乱(1350~52)の頃、三河守護の一色範光が知多に侵攻し、大野湊を押さえて背後の丘陵に築城したのが始まりでした。

 応仁の乱(1467~77)の頃になると、勢力の衰えた一色氏に替わり土岐氏が大野城を奪取し、家臣の佐治宗貞を入れて支配させ、以後は百年あまり佐治氏の居城となりました。

 

 佐治宗貞は甲賀53家のひとつ佐治家(甲賀市水口町和野)の出と言われますが、諸説あって確証は有りません。

大野の領地は3万石程度だったそうですが、大野湊を拠点に伊勢湾奥部の海運を担う“海賊”が生業だった様で、領地以上の実入りが有った事は確かですね。

 

北側駐車場に有る看板 城址より公園整備が主ですね

 

搦手道と思われる道も、城の道ではありません

 

しかし、手付かずの切岸は戦国の城そのものを遺しています

 

狭い帯曲輪に到着、その上に広大な郭があります

 

これはⅢの郭で、この城最大の広さです

 

おそらく武者溜りとしての機能なんでしょう

 

 

 戦国時代になり2代:為景の時に土岐氏の衰退で自立し、国人領主となった佐治氏は知多半島全域に版図を拡げ、伊勢湾の水運を一手に掌握した『佐治水軍』へ成長したと言います。

 佐治氏の力は尾張統一を進める織田信長からも重視され、“桶狭間”の後には嫡子:為興に信長の妹:お犬の方が嫁す事で正式に織田氏の傘下に入ります。

為興は信長の一字を与えられ、以後は信方と名乗り、織田一族同様の待遇を受けました。

 

 晴れて『織田水軍』となった佐治氏ですが、永禄12年(1569)の伊勢侵攻以後の信長は、志摩の九鬼善隆を水軍の長に据えますから、内海の佐治水軍の能力には限りが有ったのでしょうね。

 

 天正2年(1574)、伊勢長島一向一揆の討伐戦に従軍した信方は、長島城開城時の一揆勢の決死の奇襲に巻き込まれて、22歳の若さで戦死してしまいます。

信長の兄弟親族が多く戦死したあの場面に、信方も居た訳ですね。

 

 信方には一成、秀休の2児が有りましたが、一成はまだ5歳だったので、信長は弟の織田長益(お犬の方の同母兄か)を大野城に近い大草に配して、後見させた様です。

 お犬の方はこの後岐阜城に戻り、姉:お市の子である茶々の養育を任されますが、天正5年(1577)には管領細川家に再嫁しています。

 

Ⅱの郭への階段 この斜度と段差は相当なものです

 

Ⅱ郭は児童公園みたいですが、遊具が使い込まれよく利用されてる様子でした

 

土塁も巻いているので、居館が置かれた場所でしょうね

 

そして主郭のⅠ郭への階段 上には門も復元?されています

 

門を入った左手にある城址碑

 

 

 この間の佐治氏は、叔父の長益とともに従弟の織田信忠の隷下にあったと思われ、家臣団が幼君:一成を支えながら、長篠の戦、岩村城攻め、雑賀攻め、信貴山攻め、三木城攻め、そして甲州征伐にと出陣していた事でしょう。

 

 天正10年(1582)6月、京の本能寺で信長が明智光秀の謀反で討たれると、直属の信忠までが二条城で自刃してしまいます。

佐治氏も信忠に従って備中へ出陣する直前で、大野城で触れを待っている状態の出来事だったと思うので、家中は相当に混乱した事でしょう。

 先発していた後見役の長益は無事に逃げ戻って来るのですが、適切な指示は貰えません。北伊勢の神戸信孝は四国攻め総大将でこぞって大坂に出陣中であり、南伊勢の北畠信雄も長野信包も大半の兵を信孝に貸していて、二千ばかりで近江甲賀まで出陣はしたものの、すぐに引き返す有り様でした。

 

 結局、何ら身動きのとれぬ中、備中から羽柴秀吉が引き返して来て畿内で軍容が整い、明智光秀を討伐したので“清須会議”へと繋がります。

 会議の結果、織田家の家督は信忠嫡男の三法師となり、信雄と信孝が後見人となりました。

信忠の遺領は美濃を信孝が、尾張は信雄が継いだので、佐治家は自動的に信雄の傘下に入る事となりました。

 

 

門は高麗門でした(^^; その脇に二重三階の展望塔 ドアは開いてるけど、回廊の火燈窓は閉まってそう…

 

中に展示されてた縄張り図 思ったより郭が多く広大ですが、縄張りは戦国以前の古さを感じます

 

火燈窓は手動で開きました(^^) 主郭は見張り機能の広さですね 正面の森には佐治神社が有る様です

 

南の眺望は大野の湊と伊勢湾が一望できます

 

西の対岸は藤原岳と川越火力…かな?

 

 

 伊勢松ヶ島から尾張清洲に居城を移した信雄は織田姓に復して、尾張の国衆の掌握にも努めます。

 一族並みの佐治家に対しても、その結び付きを深める為、天正12年(1584)3月、15歳になった一成に叔母:お市の三女:お江を娶せ、輿入れさせました。

GOちゃんはまだ11歳だったそうです。

 

 当初は実力者の秀吉との関係も良好で、信孝&柴田勝家の討滅に加担した信雄でしたが、次第にその本性を顕わにして行く秀吉に危機感を覚えると、徳川家康との共闘を模索しだします。

 そしてお江の輿入れとほぼ同時の天正12年(1584)3月、両者はぶつかり美濃、尾張と伊勢を戦場にした小牧長久手の戦いが8ヶ月間にわたり一進一退で繰り広げられます。

この戦いでの佐治一成の記録は定かではありませんが、蟹江合戦には参加していた事でしょうね。

 

 11月になると、厭戦気分になっていた信雄は独断で秀吉と講和してしまいます。

戦う大義名分を失った家康はやむなく浜松に撤退する事になるのですが、これを見ていた一成は船を出して佐屋の渡し(庄内川か)で徳川軍の移動を援けました。

 この行為が秀吉の逆鱗に触れ、論功行賞で佐治家はお江と離縁させられると共に領地召し上げ追放(改易)となり、大野城は廃城となってしまうのです。

 

北の名古屋方面 名古屋港のキリン(ガンクレ)がよく見えますね

 

その眼下に大草城 本当に目と鼻の先です

 

佐治神社…と言っても祠ですが、綺麗に手入れされています 一成の石像もありますね

 

主郭土塁の東の下に帯曲輪と門があり、往時の良い雰囲気を醸しています 位置的に大手の門だったかも

 

主郭を巻く空堀は貴重な残存遺構ですね

 

 

 この一成の行動原理ですが、信雄の臣として同盟者の家康に触れる事で、何かと未熟な信雄に対し筋が通って大人な家康に惹かれる物が有り、処罰覚悟で動いたのかも知れません。

もうひとつの見方としては、勝手に和睦した後ろめたさから信雄が一成に指示して家康の撤退に便宜を図った…という事も考えられます。

 しかし家康が天下を取った後に、佐治家が再び日の目を見たかと言えばそうでもないので、後者の可能性が強いのかな?。

 

 知多を退去した後の一成は伊勢安濃津の織田信包を頼り庇護されました。

慶長3年(1598)に信包が丹波柏原3万2千石(のちの柏原藩)に移ると、筆頭家老を務めたそうです。