明けましておめでとうございます。

例年、年明けのリスタートは遅いのですが、今年は正月早々に知多半島に行く機会があったので、ついでに未踏の2城を訪ねて来ました。

 

 

 当日の天気予報は大外れ、小雨交じりの寒風が吹く最悪のコンディションで、伊勢湾越しに臨む鈴鹿の山も寒々としています。

まず最初に訪ねたのは知多市大草の大草城址、織田長益(有楽斎)が築城した城と言われ、作事を前に廃城になった未完の城ですが、思いの外遺構の残存状態が良いので、マニアの間では名の知れた城です。

 

 

尾張の城  大草城  登城日:2023.1.4

 

 

 別名     なし

 城郭形式  輪郭式平城(?)

 標高/比高 11m/10m

 築城年   天正2年(1574)

 築城主      織田長益
 主な城主   織田長益

 廃城年    天正12年(1584)
 遺構         堀、曲輪、土塁

 建造物      模擬天守(展望台)
 指定文化財   なし

 所在地   愛知県知多市大草東屋敷118-4

 

 

  大草城は織田信長の弟の長益が、天正2年の伊勢長島一向一揆制圧後の仕置きで知多郡に所領を得て、自らの居城にと築城を始めた城址の様です。

 この経緯には諸説あって、城郭体系には『最初は1kmほど南の大野城が与えられたが、水利の悪さから当地に新城を構える事になった…』とありますが、大野城は織田家親族の佐治氏の居城であり、10年後の小牧・長久手の役まで在城していますから、それは有りませんね。

 

 佐治信方は長島一向一揆の戦で戦死しており、後継の一成がまだ5歳だった事から、佐治家の後見も含めて長益が配置され、至近に築城したものと思われます。

 

 長益は信長とは13歳違いの弟ですが、幼少期は病弱で武勇に向かず、初陣も遅かった様で、大草城築城時は27歳でしたが、それまでさしたる戦功はありませんでした。

しかし兄弟の多くを失った信長からは優遇され、以後は嫡子:信忠の補佐役として帷幕にあり、天正10年(1582)の甲州征伐にも従軍しています。

 

現在の地図からも“城址”である事が明瞭な大草城 周辺も高台続きである事から、南の矢田川を外堀にした500m四方ほどの城域だったと想像します

 

南の堀跡?が駐車場になっていて、すぐ上の本丸には天守を模した展望台がありました

 

本丸西側の堀は空堀だった様ですね

 

本丸内は低い土塁で囲まれています

 

本丸は小公園とグランドになっていますが、その広さから築城時期(織豊期)が納得できます

 

 

 直後の本能寺の変では信忠とともに二条城に居ましたが、信忠切腹後に城を抜け出し、岐阜まで逃げ延びました。

周囲からはそれを揶揄されましたが、“信忠公の密命である”と開き直ったそうです。

しかしその後に目立った動きは無いので、生き残る事が長益の価値観だったのでしょう。

 

 本能寺の変後の長益は、伊勢の織田信包に庇護されていた…という説も有りますが、最終的に甥の信雄の家臣という事になり、織田家の存続(自身の?)に一役買っています。

 信雄傘下でも大草城主だったかどうか判りませんが、おそらくそのままで、地勢的に立場的に信雄と信孝兄弟の融和に尽力していたのかも知れません。

もしくは、信孝の野間への幽閉と自刃に一役買っていたかも…(^^;

 

 ただ、大草城が着工から10年経っても未だ完成していないのも変な話なので、清須に近い他の城に居て、大草城はすでに放棄状態だった可能性も有りますね。

 

展望台が開いていたので、入って見ます

 

3階の回廊には出られましたが、金網張りなので撮影に難渋します(^^; グランドでは老婦人がグランドゴルフの自主トレに励んでいました

 

網の目にレンズを押し付けて撮影 伊勢湾が至近に見渡せ、知多の要衝なのが判ります

 

目測70m四方は有りそうな本丸広場 御殿予定地だったのでしょうが、この城で作事にまでは至らず、建物は無かった様です

 

北西の土塁端は物見櫓台風で、此処は戦国時代の遺構みたいです

 

北側の土塁は5~6mあり、これも戦国遺構風 この前に主殿を建てる予定だったか?

 

 

 羽柴秀吉との関係はというと、信雄に従い敵対はしたものの、“信長の弟”ブランドを駆使して佐々成政など織田家譜代の懐柔に寄与したので、処罰される事なく利用された様です。

しかし天正18年(1590)の小田原の役にも信雄と参陣した筈ですが、陣立て図には特に長益の名は無く、武将としてのネームバリューは高くなかった事が判ります。

 

 その証拠に、その後の仕置きで移封を拒んだ信雄が改易されると、長益も知多の領地(2万6千石)を召し上げられ、剃髪して“有楽斎”と号し摂津国で2千石が与えられ、秀吉の伽衆となりました。

この時が大草城の正式な廃城年と言えるでしょうね。

 

 伽衆として秀吉に仕えた長益でしたが、淀殿は姪にあたる為に親密で、それなりに居場所を見つけた様です。

そして秀吉が病死するると、次の生き残りを賭けてさっそく徳川家康に馳走しました。

 微禄ながら関ヶ原には450名を動員して東軍に加わり、小西隊、宇喜多隊を相手に一世一代の奮戦をしていますから、この時の“勝負勘”は冴えていた様です。

 もっとも、奮戦したのは主に庶長子の長孝だった様ですけどね。

 

本丸北側の土塁を超えるとやや低い位置に二の丸が広がります 本丸とはややオフセットされてるので、東側土塁が目の前に有り、東の堀端へと遊歩道が続いています

 

この堀は内堀になりますが、水堀のままよく遺されています

 

近年の公園整備で外側に丈夫な桟道が造られ、絶好の散歩道になっています

 

桟道は堀を渡り、二の丸の北側土塁へと登って行きます 夏は藪蚊が凄いでしょうね(^^;

 

 

 論功行賞で長益には大和国で3万石が加増され、3万2千石の大名に帰り咲きました。

長孝も美濃で1万石の大名になり、長益系織田家の分家として明治まで続きました。

 

 戦後も長益は豊臣家の臣として大坂城に詰め、頼れる親戚のオッチャンとして淀殿と秀頼を補佐したそうです。

この行動の裏には家康との間に何らかの取引が有った気がしますね。

 大野治長も旧知(元家臣か?)の仲だったらしく、家康の思惑を忖度して大坂城内に徳川に融和的な空気を醸成するのに励んでいたのでは?…と思われます。

 

 慶長19年(1614)、大坂冬の陣が近付くと城内に居た織田信雄や織田信則(信包の子)ら織田一族は退去しましたが、長益だけは残り、淀殿親子を支えました。

緒戦では豊臣方が有利な戦況の中で、本多正純と和睦交渉を進めていたのも長益でした。

 そして翌年、再戦(夏の陣)が近付くと、本能寺の時と同じ様に淀殿親子を残して城を抜け出し、余生は京で茶の湯三昧の“有楽の道”を過ごしたそうです。

 

 

北側土塁から見下ろす二ノ丸 本丸と同じくらいの広さがあり、さすがに織田一族の城といった規模感です

 

土塁の北西角は櫓台になっていました

 

遊歩道は土塁上に整備されていて、落ち葉の絨毯を踏んで歩きます

 

二ノ丸の土壇は削平が曖昧で、作事前に放棄された事実を物語っています

 

井戸の掘削痕がまた生々しいですね

 

この窪みは何だろ?

 

二ノ丸は水の手機能も兼ねてた様で、近年の工事なのか土塁を一部切り崩して排水溝が造られています

 

 

 城址の感想そっちのけで長益批判に終始しましたが、他の城で取り上げる機会も無い人なので、ご勘弁ください。

日本史上屈指の武家:織田一族にとって決して自慢できる武将では無かった様です。

 

 最後に、未完で廃城になった割に大草城の遺構が良く遺っている理由ですが、尾張徳川家の領地となった知多市大草は重臣の山澄英龍に与えられ、山澄氏は代々城址遺構の保全に努めたのだそうです。

 尾張徳川家家臣団名簿の英龍の役職は“城代家老”となっているので、大草城址は一国一城令に触れぬ程度に、微妙に再利用が可能な状態で維持された様ですね。