半兵衛さんの続きです

 

 近江小谷から戻った竹中半兵衛重治の動向は不詳ですが、2年後の“姉川の戦い”では安藤守就の与力として参戦しているので、従来通りに守就と行動を共にしていた可能性が高いと思います。

 永禄11年(1568)の信長上洛~観音寺城の戦や伊勢侵攻戦には安藤隊の名が見えないので、留守居だったのでしょうかね。

 

 元亀元年(1570)4月の朝倉攻め~金ヶ崎の退き陣にも安藤隊は加わっていませんが、7月の姉川の戦いに際しては、やっと重治の活躍が出て来ます。

 これに先立ち、浅井・朝倉軍は美濃境の諸城を改修して兵を入れ、信長の逆襲に備えましたが、織田軍はこれらに一斉に調略を仕掛け、多くの城が開城降伏したので、難なく近江に進攻しています。

 そのうち、長亭軒城(のちの松尾山城)と長比城を調略したのが重治だったと記されています。

 この国境の美濃側に“玉城”という謎の城が有りますが、竹中氏の足跡が有る様です。

当時の状況からして、この時に織田側の最前線として重治が整備した可能性も否めません。

 

引き続き城域をグルリ廻って行きます

 

改めて本曲輪虎口の二重堀 真ん中の小さな島は“馬出し”と説明されており、凝った造りですね

 

二の曲輪北側の土塁跡

 

二の曲輪土塁から見下ろす大手曲輪

 

 

 本戦での安藤隊は稲葉隊、氏家隊とともに横山城の攻囲に当たりましたが、開戦後に織田軍が劣勢になると右翼から浅井軍の側面を衝き、戦局の転機になっています。

もしかしたら重治の献策だったのかも知れませんね。

 

 敗れた浅井・朝倉軍が撤退した後、横山城を開城・降伏させた信長は、ここを浅井の監視拠点と定めて、城代に木下秀吉を置いて守らせる事としました。

竹中家譜によると秀吉は信長に言上して重治を与力として残して貰う様に請願したそうです。

おそらく一連の作戦行動の中で、重治の動きが抜きん出て見えてたのでしょうね。

*この戦では重治の弟の重矩も浅井の猛将:遠藤直経を討ち取る活躍をしました。

 これ以降の重治は、その死まで秀吉と行動を共にする事になった様です。

 

本曲輪大手から北へ下りると、西の曲輪が林間に眠っています

 

本曲輪土塁の下には横堀が伸びていて…

 

最後は北に竪堀で落ちています

 

西の曲輪は北の尾根へと伸びていますが、東側は土塁、西側は帯曲輪の二重構造です

 

 

 秀吉はこの後、天正元年(1573)の浅井氏滅亡まで横山城に詰めて浅井・朝倉対応に専従していますから、重治もその帷幕に居たのでしょう。

 将軍:義昭の信長包囲網では武田信玄が攻め上って来るという大ピンチもありましたが、秀吉はよく守って浅井・朝倉勢に攻め込むスキを与えなかったので、包囲網は瓦解します。

 

 その戦功の大半は調略によるもので、浅井氏は磯野員昌、新庄直頼、宮部継潤、阿閉貞征といった名立たる武将をに離反されてしまいました。

物語の中では秀吉が単身乗り込んで言葉巧みに篭絡するのですが、大将がそんなリスクを冒す筈も無いので、主には重治が調略したのかも知れません。

 

西側の二本の竪堀に挟まれた斜面には、段々に曲輪が造られています これも珍しい構造ですね

 

尾根上に延びる西の曲輪 帯曲輪には間伐の樹木が積まれていて、残念な事に(^^;

 

北の尾根の先端には階段状に小曲輪が重なり…

 

最後は堀切で終わっていました

 

 

 天正5年(1577)から秀吉は中国方面の軍団長として播磨に出向きます。

重治も同行しているので、美濃岩手に戻る事は無かったでしょう。

…とすれば、重治自ら菩提山城に手を加える機会が有ったのは天正4年(1576)までという事になります。

 菩提山城を見て廻って、ひとつ引っ掛かるのは“東向きの縄張り”…という事でした。

斎藤氏を警戒した築城の出自から見ればそれで良いのですが、織田氏に臣従して以降は敵は西に居る筈ですね。

“信長への奉公”を思えば、西に向く適地に新城を構えて然るべきでしょうが、重治は菩提山城に拘り(?)そのまま強化した形跡が有ります。

 

一旦台所曲輪に戻って、次には西側の曲輪を見て行きます

 

西側はまた、竪堀と小曲輪を複雑に組み合わせた、マニアックな構造が見えています

 

それらの中心となるのが広い空堀の先にある出曲輪ですね

 

深く攻め込まれた際には放棄も可能な“捨て曲輪”構造ですが、相当な広さがあります

 

 

 後日、後嗣の竹中重門は関ヶ原の戦の折には、家康の本陣として菩提山城を提供する旨を申し入れたと言います。

西軍が大垣城を出て関ヶ原に移動した為、家康は桃配山に本陣を置きましたが、そのまま大垣城攻囲戦となったなら、東を全て見渡せる本当に適地ですからね。

 

 信長が運よく勝ち抜いたものの、元亀期(1570~73)は織田氏は四面楚歌で、どう転んでいてもおかしくない時代です。

 重治には如何なる事態にも対応でき、場合によっては信長とも手を切る心構えが有った証拠…と言えるのではないでしょうか?

 

出曲輪の端には見張り櫓台的な土塁が有るので、独自の指揮系統での戦闘が可能な重臣が守った郭ですね

 

見張り台から覗くと、横堀と竪堀さらに土塁の構えが有り、複雑です

 

下の土塁上には2ヶ所の凹みか有り、搦手虎口かな?…と思いましたが、“畝状竪堀”と説明されていました… 皆さん畝状竪堀が好きですね(^^;

 

その外側も一条の堀切で仕切られ、土橋が遺っています  どうやらこの方面が一番の弱点で、シッカリ守られている感じです 

 

 

 天正6年(1578)、秀吉とともに播磨姫路に詰めていた重治は、毛利方勢力の浦上氏を攻め、備前八幡山城の調略に成功しています。

 同年、摂津有岡城の荒木村重が離反し、説得に赴いた黒田孝高が城内に監禁される事案が起こりました。

 孝高も離反に同調したと見た信長は、秀吉が預かる人質の嫡子:松寿丸(のちの長政)の斬首を命じましたが、ここは重治の一存で松寿丸を岩手城下に匿い、別の子の首を差し出して騙し通したと言われます。

 

 これは創話でなく史実の様ですが、事の大きさの割に冷静に進めた重治の心胆の大きさが見えます。

ただ、それに対する黒田家側からの謝礼が軽微なのがちょっと気になりますね。

 長政は後に、匿って貰っていた竹中家臣:不破矢足に対して黒田家への仕官を打診していますが、不破矢足は固辞して帰農の途を選んでいます。

子供が増えるのは傍目にも目立つから、身代わりとなった同年代の少年とは自身の子だったのかも知れませんね。

 

下の土塁の延長上には広めの腰曲輪があり、馬出し機能も用意されていました

 

出曲輪まで戻って方向を再確認して見ると、南宮山方向の谷間ですね  これは、西の大勢力=浅井氏が仮想敵の時に整備された最新のものと思います

 

大手に戻って、菩提口へと下山して行きます こっちの道が絶対に楽ですよ

 

15分程で麓の白山神社に着きました

 

境内にある芭蕉句碑  ところ芋とは自然薯ではなく、アクの強い非食用の山芋の事みたいです

 

 

 天正7年(1579)6月、播磨三木城攻めの陣中で病を発していた重治は病没しました。

死因は“肺病”とされていますが、京との間を往復して療養していた…という記述もありますから、結核だったのでしょうね。

享年は36歳、まだまだこれからの活躍が期待できるタイミングでの死というのも、ヒローにされる条件であり、禄高の低さが却ってそれを思わせます。

 

 重治が世間に知られるのは、江戸初期に小瀬甫庵が著した『太閤記』が発端で、甫庵は明らかに“諸葛孔明”をイメージしていたと思われます。

…というより、孔明に近い人物を探したら、重治が居たというのが正解でしょうか?。

江戸中期になると歌舞伎の題材として更に脚色され、民衆にも“軍師半兵衛”が定着するのですが、それはともかく、重治が長生きして、秀吉の直臣となって残っていたなら、秀吉政権もより充実して、豊臣の天下が長く続いたのでは?

そういった妄想を繰り広げるに充分な資質の人物には違いありませんね。

 

最初の竹中氏陣屋跡に戻ってきました 江戸期は陣屋扱いですが、重門が築いた岩手城です

 

大手櫓門の南側石垣は積み直し復元(?)されていて、水堀もあり往時の姿を偲ばせます

 

大手門北側の古い石垣と水堀跡(?) 陣屋遺構に違いないでしょうが、外側に雁木(石垣上に登る階段)が有ったりでヘンな感じもします 

 

北の端に遺る古い門は…これは違うかも

 

半兵衛さんの実像には…結局ほとんど迫れず、やはり謎の人です。 真田幸村と同じで、それでイイのかも

 

 

 竹中氏のその後ですが、重治の跡は嫡男の重門(6歳)が継ぎ、家臣団に支えられて秀吉に仕えます。

石高はさして変わらず6千石でした。

 重門は天正16年(1588)には山上の菩提山城を廃して、麓に岩手城(現:竹中氏陣屋)を築いて居城とした様です。

 

 関ヶ原の戦では当初西軍に属しましたが、井伊直政の調略に従い、旧知の黒田長政に与力して戦ったので所領は安堵され、以後は徳川旗本として明治まで続きました。

 立花宗茂が西軍で戦いながらも20万石の大名で残ったのに比べると、当時はまだ竹中半兵衛重治の名声がそれ程には高くなかった事の顕れですね。