体力が限界に来て思わず難渋した上平寺城への登城。 4時になってやっと到着しました。

 

米原市観光HPより 縄張り図  この図が現地に欲しい!

 

連続竪堀の西端のを登って行くと、郭の予感

 

下には帯曲輪が見えています

 

登りきると、三ノ丸の平場です

 

削平は曖昧ですが、広さは相当にあります

 

次の郭の虎口へは… 皇居半蔵門の土橋みたいなのが有りますね(^^;

 

 

 前期の室町幕府は交替で行政を司る管領三家(細川、斯波、畠山家)と、同じく交替で軍事・警察を司る侍所四家(赤松、一色、山名、京極家)で運営されていました。

この主要7宿老に六角氏でなく京極氏が有るのは、多分に道誉の功績によるものでしょうが、道誉の子の高秀の頃には、京極氏は本領の北近江に加え、出雲、隠岐、飛騨の守護でしたから、それなりの兵力の裏付けが有ったからでしょう。

 

 高秀の次は嫡子の高詮が継ぎましたが、二男の高久には犬上郡尼子郷が与えられて、以後は庶家の尼子氏を名乗ります。

高久の子の持久は、近隣大名と係争のあった出雲国に守護代として下向し、収拾に当たりましたが、後に自立して戦国大名:尼子氏となりました。

 

左手に大きな曲輪が現れました

 

ここは土塁で複雑に仕切られていますね

 

左手の曲輪も土塁が多用されています その効用については、知識が足りません(^^;

 

東側の斜面に現れる大きな竪堀

 

曲輪内も堀で仕切られています

 

ここも削平は甘いですね

 

 

 高詮の孫の持清が当主となっていた応仁元年(1467)、管領家の畠山氏、斯波氏に家督争いが起こり、やがて将軍後継問題にまで発展した全国的な大乱“応仁の乱”が起こります。

 この時代は特に当主の質に伴う決定権や発言力が曖昧で、継嗣間争いが有力家臣間の権益を巡ってのお家騒動になり易く、また婚姻関係での他家の干渉も入り易くて、大乱を誘発する素地が有った時代と思います。

中央集権化出来なかった室町幕府の構造的な弱点が露呈した争乱ですね。

 

 京極氏は持清の妹が細川氏に嫁して産んだ勝元が盟主となっていた縁で東軍に属し、1万の兵を率いて入京し戦いましたが、勇猛な朝倉孝景軍に惨敗するなど、パッとした戦果はありません。

 翌年には戦線は近江に移り、西軍に与した六角高頼と激しく戦いました。

一時は観音寺城まで攻め込み、奪取するなど優勢に推移しましたが、持清は対峙の陣中で病死してしまいます。

 

次の虎口は何やら本格的 堀切と土橋で仕切られています

 

堀切の先は…さっき見えてた竪堀

 

戦国の城の教科書通りの虎口ですね

 

反対側(西側)の堀切も…

 

ずいぶん先まで竪堀で落ちています

 

さて、虎口を登って行くと

 

 

 持清の嫡男:勝秀は2年前に病死していたので、家督は勝秀の子:孫童子丸(5才)が継ぎ、持清の三男(叔父)の政経が補佐する形で難局を乗り切ろうとしました。

しかし、孫童子丸は翌年に病死してしまい、家督は政経に移るかに見えましたが、持清の二男の正光は、孫童子丸の弟の乙童子丸を立てて対抗したので、京極氏を二つに分けた家督争いが勃発します(京極騒乱)。

 

 折からの応仁の乱と相俟って、正経側が西軍に寝返って六角氏と和睦し、美濃斎藤氏や斯波氏など西軍の援軍を得て優位に立つと、一旦出雲に逃れた正光側も出雲の国人衆を動員して上京し、将軍:義尚の信頼を得て東軍勢と近江に侵攻するなど、一進一退の攻防を繰り広げました。

 

内部は意外に高い土塁に囲まれた空間

 

ここは二ノ丸の様ですね

 

東側は高い土塁が巻き、この下は帯曲輪が守っています

 

西側の一段低い曲輪も土塁付き  おそらく、二の丸が主君と妻子の居住区だったのでしょうね

 

次は本丸? かと思うと、また出た半蔵門  これは近年の登山道の改変ですね、おそらく

 

主郭の手前の小郭も土塁で厳重です

 

 

 京極騒乱は34年間も続き、正光は死去して成人した乙童子丸→高清が中心となり、一方の政経も、出雲の尼子経久の元に留まっており、近江で戦いを指揮していたのは嫡子の材宗でした。

 この間に応仁の乱が終息し、戦闘の規模も限られる様になっていましたが、長い騒乱で出雲、隠岐、飛騨の所領では守護代や国人衆の横領が相次ぎ、京極氏の勢力は北近江に限られるという惨状になっていました。

 

 明応8年(1499)頃の北近江はというと、京極氏重臣:上坂家信が家臣団の大半を仕切っており、家信の裁量で高清は近江に帰還して、正式に当主となりました。

この時に整備されたのがこの上平寺城と山麓の居館群の様で、家信の“京極家再建”への意気込みが見える様ですね。

 

 これに反発した材宗は何度か攻勢を掛けるもその都度撃退され、永正2年(1505)には和睦を余儀なくされて、やがて高清によって自害に追い込まれ、長い騒乱はやっと終結しました。

 

西側を守る小郭も然り

 

土塁は傾斜に合わせて登り土塁になり… するとこの先は…

 

やっぱり! 竪堀が上まで切られていました これが朝倉式か?

 

中央部は堀底道で主郭へと至ります

 

西側の登り土塁と竪堀です

 

この細道を登ると本丸みたいですが、虎口は何処だったんだろう?

 

 

 高清の北近江支配は、重臣:上坂家信が主導して行なわれましたが、家信の死後もその役割は子の信光へと継承されました。

 大永3年(1523)、高清の跡目を決めるにあたり、両者は二男の高吉で一致していましたが、

有力重臣の浅見貞則・浅井亮政らは長男の高広を推して対立し、翌年には抗争へと発展します。

 この戦いでは高広派が勝利し、高清、高吉、信光は尾張に逃れました。

これで高広が当主となって終わり…となる所ですが、実権を握った浅見則貞の専横が目に余り、反発した国人衆は浅井亮政を旗頭に貞則を襲い、追放してしまいます。

 これ以降、北近江は亮政を中心にした“国人一揆”が運営して行く事となりますが、蔑ろにされ面白くない高広は六角定頼を頼り、“佐々木一族の領地が横領される”と見た定頼もこれに積極介入して、六角vs浅井の構図が出来てしまい、六角氏の侵攻を許す事になってしまいます。

 そんな中、亮政が病没してしまい、嫡子の久政が跡を継ぎますが、圧倒的不利を感じた久政は尾張の高清、高吉親子と高広も含め和解して呼び戻し、上平寺館に入れて名目上“北近江の主は京極氏”の形を造ります。

そして六角氏へは臣従の姿勢を取る事で、なんとかこの難局を逃れました。

 

 

上に登って見ると… ススキが繁って削平も微妙ですが

 

でも本丸に間違いないですね

 

どうやら此処が虎口だった模様

 

尾根城の本丸(最高所)らしく、背後の土塁は高くしてあります

 

樹木が多くて眺望は殆ど効きませんが、東の関ヶ原方面は見えました あれは南宮山ですね

 

樹木の隙間から望遠で覗いた琵琶湖 沖島と荒神山が視認できます

 

 

 後に京極氏の親子は浅井氏の居城:小谷城(京極丸)へと移され、軟禁状態となりますが、これを嫌った高吉は抜け出して六角氏を頼り、浅井氏に挑んで行きます。

しかし、浅井氏の成長と六角氏が衰退して行く中で、領地の奪還は遂に叶いませんでした。

 

 小谷城に居た高清は晩年には上平寺館に戻され、天文7年(1538)に79歳で没しました。

高広はその後三好長慶を頼りましたが、天文22年(1553)の六角氏との戦いで戦死したと言われます。

 高吉のその後は足利義昭の近臣として仕えた様で、義昭と織田信長が不仲になると信長に二子を人質に出して臣従し、自身は隠居した様です。

その兄弟(高次、高知)には美人の妹:竜子(松の丸殿)が居た事もあり、豊臣秀吉の世になって大名に取り立てられ、徳川の世も生き抜いて5家が明治まで大名で続きました。

 

本丸土塁の北側は急激に落ちた堀切になっていました

 

堀切には細い土橋が有り、堀の両側は竪堀になっています この道を進んで行けば30分で弥高寺跡ですが、今回はもうダメですね

 

土橋の向こう側から見る本丸土塁 高さは充分ですね   さて、日暮れ前に急いで下山します

 

麓の伊吹神社にある京極氏墓所 国清の墓石は江戸期に後裔の丸亀藩主が清滝の菩提寺に移した様で、此処に有るのは子女の墓でしょうね

 

 

 高清が没した後の上平寺城は一時廃城となったかも知れませんが、現存する姿を見ると大軍に抗戦できる程の構えに拡張・強化されており、京極氏の内訌や六角氏を想定した規模を超えています。

 郭と竪堀の組み合わせから、“越前朝倉氏の仕事”と見る専門家も多い様で、その機会が有ったとすれば、“金ヶ崎の退き陣”~“姉川の戦い”に至る間の織田対策での拡張の痕跡なのかも知れません。