八講師城から伊吹山山麓の上平寺城登城口に移動して来ました。

この時点で2時半、この城での散策は麓の館跡→山上の城址→隣の尾根にある支城の弥高寺跡と都合3時間半を予定していましたから、とても微妙な時刻となってしまいました。

ともかく、速足で散策を始めます。

 

 

近江の城  上平寺城  登城日:2022.10.16

 

 

 別名      桐ヶ城,霧ヶ城,刈安城,上平城

 城郭形式   山城(梯郭式)

 標高/比高   669m/380m

 築城年        永正年間(1510頃)

 築城主     京極高清

 主な城主     京極氏

 廃城年    元亀元年(1570)頃

 遺構 郭、    土塁、堀、庭園跡

 指定文化財 国の史跡

 所在地       滋賀県米原市上平寺

 

 

 上平寺城は、北近江の戦国大名だった京極高清が、領地支配の拠点として築城しました。京極氏については、織豊期以降の転封を捉えて他人の造った城を渡り歩く“ヤドカリ大名”などと言う不遜なブロガーも居ます(^^;

そこで、この際に京極氏という氏族の由来と戦国期までの生き様を少し詳しく調べてみます。

 

 京極氏とは、宇多天皇を祖とする“宇多源氏”の一流である“佐々木氏”の分家です。

佐々木氏は“近江源氏”とも呼ばれ、近江蒲生郡佐々貴庄を本拠にしていましたが、保元・平治の乱では源義朝に従って戦い、敗れた後には関東に逃れて、伊豆に流刑となった源頼朝の家人となっていました。

 治承・寿永の乱(源平合戦)で活躍した佐々木四兄弟には、鎌倉幕府設立の功臣として守護職が与えられ、特に嫡男の定綱には旧領:近江の守護職が与えられ復帰を果たします。

 

上平寺城と周辺の京極氏遺跡 琵琶湖畔の平地ではなく、内陸の山間を本拠にしていたのですね

 

京極氏系譜 徳川幕府でも源氏の名家として優遇され、多くの大名家で残りました

 

登り口の京極氏城館跡 奥に見える駐車場の前に土塁と内堀の跡が残ります

 

案内看板 初期の本拠地は“柏原館”とありますね…

 

城館の正面の土塁は高いです

 

郭内はまず重臣屋敷跡が並びます “弾正”とは誰なのか?…調べたけど辿り着けませんでした

 

 

 30年後の承久3年(1221)、朝廷と幕府の間で“承久の変”が起こると、定綱の嫡男:広綱ら近江佐々木氏の殆どは朝廷側に加担します。

一方で北条義時の娘を娶り、鎌倉に居た四男:信綱は幕府軍に加わって戦ったので、その結果、近江守護は佐々木信綱が担う事になりました。

 

 仁治3年(1242)、信綱は61歳で死去しますが、遺領の近江は4人の子に分割相続となり、主に南近江6郡と京の六角堂院屋敷を相続した三男の泰綱が守護職を継ぎ宗家となって、後に六角氏を名乗ります。

そして北近江6郡と京の京極高辻の屋敷を相続した四男の氏信は後に京極氏を名乗り、ここでやっと京極氏が誕生するのです。

 

辻にある地蔵さんの祠

 

光って見にくいですが、蔵屋敷跡とあります

 

隠岐国の守護代を務めた隠岐氏の屋敷か

 

一番上に位置する京極氏の館跡 日常の館ですが、意外に狭いと感じます

 

案内板 お読みください

 

縄張り絵図 廃城の100年後に掛かれたものらしいですが、城館を家臣屋敷、民家が取り巻いて、“城下町の奔り”ですね

上には詰め城の上平寺城も描かれていますが、距離感はこれは全然違いますので…

 

 

 氏信と泰綱は同母兄弟であり、最初から仲が悪かった訳では無いでしょうが、ほぼ同規模の相続になった事は、佐々木氏一体化(家臣化)の妨げとなり、後に禍根を生む遠因と言えるでしょうね。

 氏信は領地の支配拠点として坂田郡太平寺(上平寺城の西3km)に太平寺城を築いており、思いの外内陸の奥まった地を居館としていた様です。

 また、同じ坂田郡の清滝に菩提寺の徳源院を創建し、ここも居館(柏原館)であった…とも言われますから、その後の上平寺城を含め京極氏の中枢は湖岸ではなく、伊吹山を背負った内陸に有った訳ですね。

この辺は、京極氏をもっと深く学ばないと判らない謎の部分ですね。

 

 

地勢上、京で活動する事が多かった京極氏ですから、屋敷の奥には瀟洒な庭園が造られていた様です

 

屋敷地の一角には墓石が集められていますが、京極氏墓所は他にあるので、家臣など一帯のものを集めた様です

 

館跡の上に造られた伊吹神社 京極氏の墓所が有りますが、下山後に時間が有ったら寄ってみよう…

 

神社の石段の下を西に進むと、上平寺城への登城路です  もう3時だから急がなきゃ(^-^;

 

登城路は伊吹山の登山道の一つですから、良く踏まれて整備されています

看板によると上平寺城まで1時間の道程ですから、40分くらいで登る感じでズンズン歩きます

 

尾根道は風が通って気持ちイイですね。 ぼちぼち下山する人とすれ違い出します

 

 

 鎌倉末期、京極氏の当主は氏信の曽孫の高氏(道誉)の代になっていました。

後醍醐帝の討幕綸旨に応じて足利尊氏が挙兵すると道誉は終始尊氏に協力して戦い、幕府側に加わり埋没した六角氏に代わって近江守護職を手に入れます。

次いで中先代の乱、観応の擾乱、南北朝の争乱と尊氏を補佐した道誉は“足利幕府の立役者”と言われ、近江に加え六ヶ国の守護になりました。

 

 室町将軍が二代:義詮になると政所執事(後の管領)を務め、事実上の最高実力者となります。

 思えばこの頃が京極氏の最盛期であり、道誉は犬神郡甲良まで進出し、勝楽寺城を築いて終生の拠点にしていますから、領地の最南端まで出て行っていた感じですね。

 

30分ほど登ったら、樹木は広葉樹に変わります 鎌刃城ではしゃぎ過ぎたせいか、さすがに疲れが出て足取りが重くなりました(^^;

 

下山して来た女子ハイカーに、『上平寺城まであとどれくらい掛かります?』と尋ねたら、『私が通り過ぎたのは30分前でした…』との答え…疲れがドッと出て来ました

 

それからは重い脚を引きずる様に登る事20分、『弥高寺までは無理だなぁ…』と落胆してると… おや?これは!

 

目の前に見事な竪堀遺構が現れました

 

しかも畝状に何本も連続して並んでいます 上平寺城の下端に到着した瞬間ですね

 

この写真を撮ってる時にはもう足腰の疲れなど消え去っていて、切岸を駆け上がって次の堀へと向かっていました…つくづく馬鹿ですねぇ…本当に(^^;

 

 

 道誉の後の当主は早世が続くなど不遇で、勢いを盛り返した六角氏に近江守護は戻されてしまいます。

しかし、京極氏の北近江6郡は守護不介入の地として独立した守護並みの扱いを受けていた様で、六角氏の不満はやがて応仁の乱での敵対に繋がり、雌雄は決まらぬまま下克上の戦国の世へと進んで行くのです。

 

 

《後編》につづく