思いがけず鎌刃城で長居してしまったので、次の八講師城はサラリと巡って時間を挽回します。

麓から歩きの登城路も有る様ですが、城址のすぐ下まで稗谷林道が通っているので、コレ使います。

R21(中山道)の梓河内の交差点を右折し、名神を潜って200m行くと左に『←八講師城』の看板が有るので、左折するともう一本道でした。

 

 

地図では林道が途中までしか描かれていないので書き足しました 実際にはずっと奥まで続いていて、峠の三叉路の部分がPです

 

 

近江の城  八講師城  登城日:2022.10.14

 

 別名      八講師砦

 城郭形式   連郭式山城

 標高/比高   480m/310m

 築城年     平安末期?

 築城主     佐々木氏

 主な城主   沢田民部大輔、多賀豊後守高忠

 廃城年     織豊期末?

 遺構        土塁、郭、堀切、竪堀、石垣

 文化財指定 なし

 所在地    滋賀県米原市梓河内

 

  八講師城とは聴き慣れない名の城だと思います。

史実にも殆ど出て来ない城名で、戦いに使われた記録も無い様なのですが、山城歩きの先達が滋賀でお奨めの城址に挙げていたので、どんなモノなのかチラ見して行きます。

 

 とにかく事前情報が無いので、ゼロベースでの訪城になってしまいましたが、“八講師…”というネーミングから、『八人も講師を雇うと、120万円位かな?』とか『八回の講座だと2泊3日の研修だな…』などと、適当な事を思いながら林道を登って行きました(^^;

 

 

林道は道幅も充分で殆どが舗装路ですが、落石は頻発している様ですね(ガラスの反射で見にくいですが…)

 

比高300mを5kmで登りきった所に有る駐車場広場 本来は崩れた土砂の仮置き場なのかな?

 

この広場の脇に登城口が有ります

 

簡単な案内看板の縄張り図 東からのアプローチになるので、すぐに主郭が有る様ですね

 

城址は杉林の中で、最初は急坂を登ります

 

すぐに現れるⅢ郭の土塁 これなら見学も簡単だったのですが…

 

 

   八講師城は中山道の柏原宿を見下ろす南側の山上に築かれた山城です。

初期の城主としては沢田民部大輔という名が残っている様ですが、この人は平安末期の佐々木氏(近江源氏)の家人だった人なので、保元・平治の乱に際し、佐々木秀義が砦を築いたのか、その子の定綱が平家追討に築いたのか、いずれかだと思われます。

 

 どちらにしても、縄張り図を見る限りでは最終は戦国末期に手が加えられているのは明白なので、その当時には小規模な見張りの砦だったのでしょうね。

 

塁上は良く削平されて、東端には物見台の高みも遺っています

 

次いでⅡ郭は? …あれ? 主郭は3つの郭が並んでいる筈ですが、背後にあるのは尾根道でした

 

尾根道はさらに続き、右手には小曲輪が付随しています… 道を間違えた?

 

そして堀切があって…

 

両側は竪堀で寸断されています… 此処はいったい何処なんだ?

 

堀切を反対側から

カメラの縄張り図を呼び出して、あれこれ照合して見ますが、符合する場所がありません(^^;

 

 

 時代が下がって、室町期の城主としては、多賀豊後守忠高の名前が出て来ます。

この人は佐々木定綱から10代後の京極高数の二男で、家臣の多賀氏に養子に入った人なので、所領は犬神郡甲良ですから、応仁の乱かその後の京極氏の内訌に際して、八講師城に布陣していただけなのかも知れませんね。

 

 

ともかく、最高所が主郭なのは確かなので、目の前のピークへと進んで見ます

 

すると、その頂上がⅢ郭でした  つまり、看板の縄張り図には描かれていないものの、その東の尾根にも郭が続いていた…という事ですね

 

ここも先端の東端には櫓台が

 

西側には1mほど高くなったⅡ郭が続きます

 

Ⅱ郭の南側には幅の広い土塁が遺っています

 

Ⅱ郭の西には3m程の切岸 たぶんあの上が主郭ですね

 

 

 戦国時代になると京極氏と六角氏の戦いが始まり、美濃の土岐氏や斎藤氏が六角氏の味方をしたので、近江の坂田郡では戦乱が続きます。

このエリアに城址が多いのも、戦場になる機会が多かったが故と思いますが、八講師城がどう機能したのかは残念ながら判っていません。

 

 

主郭は少し木が伐り払われていて、明るさがあります

 

北西方面が少し見渡せますね

 

標柱には『近江国梓河内村八講師砦跡』の文字 以前は砦という認識が一般的だったのでしょう

2つの羽釜は…意味が判りません

 

主郭の西端にも櫓台?が有って、ここが三角点でした

 

櫓台からは南側の山々が見えました あれは…霊仙山かな?

 

櫓台から下を見下ろすと、北西の尾根に郭の遺構が続いているのが見えます 時間が押してるけど、ちょっとだけ行って見るか(^^;

 

 

 縄張り図で判る様に、この城の縄張りは小谷城に似ている気がします。

特に曲輪の段差に合わせて竪堀を配している所は、浅井・朝倉の匂いを感じますね。

 そんな機会が有ったの?…と言えば、元亀元年の姉川の前哨としての美濃境の城の拡充整備が挙げられます。

八講師城の最終的な姿はこの時に造られた可能性が高いと思われます。

 

 関ヶ原の戦いに際して、石田三成が整備した…という説もある様です。

しかし、あの大軍同士の戦いにおいて、この山城が果たす機能と言えば“佐和山や長浜への烽火台”くらいしか考えられませんから、籠城機能の強化は無かったでしょうね。

 

この尾根はかなり“痩せ尾根”ですが…

 

教科書通りに堀切で断ち切られています

 

大きな堀切が有ったので、ここまでが城域なのかと思ったら…

 

まだまだ続いている様ですね

 

尾根上に大石が有って良い目印になっています まだ先にも遺構が有りそうですが、ここらで切り上げて主郭に戻ります

 

主郭から改めて北側の景観を眺めると… おや、見覚えのある山容

 

浅井氏の中枢からも狼煙が良く見える地取りですね

 

 

 自宅に戻ってから再度調べたら、米原市の観光HPに中井先生の描かれた縄張り図が有るのを見付けました。

 

米原市HPより なるほど、確かに観た範囲ではこの通りだった(^^; 

折角の城郭の権威の作図なんだから、これを城址に掲示してくれてたなら…

 

 

 事後に思ったより大規模で見所も多い事が判った八講師城。 

再チャレンジも有り得るのですが、やはり遺構よりも人間ドラマの記録や伝承でも無いと、惹かれる何かを感じない今日この頃です。

 

取り急ぎ、次の上平寺城へ向かいます。