鎌刃城のつづき

 

次は南Ⅱ郭から西の尾根に下りて行って見学します。

 西の尾根筋は、主郭のある尾根上から大きく落ちて行く尾根に沿って郭塁が築かれており、かなり下がった場所に兵士が詰めるまとまった曲輪があり、まるで出丸の様な感じを受けます。

思うに、初期の城には無かった拡充部分ですね。

 

等高線で判る様に、急激な下り斜面に郭が続いています

 

西尾根への降り口 下に見える小郭(西Ⅰ)までロープを伝って下りますが、斜度は40度以上ありそう

 

西Ⅰ郭 小さな帯曲輪です

 

同様にロープを頼りに下りて行った西Ⅱ郭

 

ここには水場がありました(水の手から?)が、水は出ませんでした(^^;

 

西Ⅱ郭から下を見ると大きな堀切と次の西Ⅲ郭があり、その先の尾根も平坦です

 

 

 どうやらこの西尾根が鎌刃城の弱点であり、この方面から敵の進攻を受けた経験から、一次的に拡張した城域の痕跡がこの大堀切ではないかと思います。

 

堀切を渡った西Ⅲの郭 その先も平坦な尾根ですね

 

平坦な尾根にはまた堀切があり、西Ⅳ郭へと続きます

 

西Ⅴの郭には外側に土塁を備え、何やら複雑な構造で、“虎口機能だったのか?”などと俄然脳内を妄想が駆け巡ります

 

見下ろす西Ⅵ郭はそれまでに比べ広大で、多くの兵を待機させられます。 ここにサルが一匹居るのを少し前から気付いていましたが、近付いても逃げる気配が有りません(^^; 30m手前で熊鈴を激しく鳴らしたらやっと気付いて逃げて行きましたが、自立したての若い雄サルだったのでしょうね

 

その先にも二段に腰曲輪が築かれていて…

 

その南斜面には連続竪堀(畝状とは言わない?)が穿たれています

 

そして先端は堀切で仕切られ、その先は大きく落ち込んでいました

 

 

 こうして見ると、西尾根が敵の攻め口だった事は明らかで、それを克服する為に二次、三次の拡張・改修が成された跡を見られた思いがします。

 

 最終的な時期と目的は?…と言うと、兵力など勘案して浅井長政による元亀元年(1570)の“織田家の反撃侵攻”対策ではないでしょうか?

 弱点の西尾根にまとまった兵を配して防御力アップするとともに、大手に取り付いた敵の背後を襲う“搦手”機能を企図していた気がします。

 

ロープの“いろは坂”を辿って登り、やっと南Ⅱ郭に戻って来ました。

この斜度は怪我の危険を伴い、この山中での事故は遭難にも繋がりかねないので、こちらこそ上級者向けエリアですね。  しかし、危ない場所には良いモノが有るものです(^^;

 

 

 

 最後は主郭から北の尾根へと歩いて行きます。

山城の最重要な機能には、麓の人里や街道の様子、敵の城砦の動きがより広範に見渡せるロケーションが有ります。

そして一族郎党が籠城し、一定期間居住できる最低限の空間も必要です。

 鎌刃城でその両方を満たしているのがこの北尾根であり、城の中枢として最初から縄張りされ、改造強化が繰り返された、素人目にも最も城らしいエリアです。

 

北尾根は北に向けて下がっていきますが、その傾斜は緩やかで、大きめの郭が階段状に並んでいます

 

南Ⅰ郭から堀切をはさんだ南Ⅱ郭 樹木の青テープは鹿の食害防止用と思います

 

南Ⅱ郭の奥に主郭の土塁が

 

主郭は広大で、きちんと削平されているのが、御殿など大きな建物が有った事を証明しています

 

グルリ巻いた土塁は上辺が広く、狭間のある塀で囲われていた様ですね  土塁の内側には石垣が積まれていたのか、小ぶりな石が散乱しています

 

雁木の名残りか?

 

 

 戦国期の鎌刃城は一貫して堀氏が城主で居続けた様ですが、詳細な動きは判りません。

近江国では応仁の乱での京極(東)vs六角(西)の戦いが有り、その後には京極氏内部での家督相続争いが起き、両派はやがて六角氏や美濃斎藤氏を巻き込んで30数年も戦いました。

 メンバー的に見ても鎌刃城の堀氏が巻き込まれるのは必然で、勝敗は一進一退でしたから、生き残った=勢いの変化を見て上手くサーフィンしていたのでしょうね。

 

主郭の中央に立つ城址碑 2005年に国の史跡になりました

 

認定の決め手となった(?)総石垣の枡形門の発掘 門柱の礎石は2個だから、石垣上に有った櫓か塀と一体化した門だったのでしょうね 

 

門にアプローチするのも石の階段だった様で、門前には石材が積まれています

 

主郭の下の北Ⅱ郭 石がコロコロしていますが…

 

主郭の土塁にも石垣が多用されていたみたいですね

 

その下にも北Ⅱ郭、北Ⅲ郭と防御の曲輪が階段状に続きます

 

 

 大永3年(1523)、京極氏の当主:高清が後嗣を次男の高吉に決めると、長男の高広を押す浅井亮政ら重臣が反発し、また家を二分する争いに発展します。

 争いは高広派が勝利し、高清父子は尾張に逃れたので高広が跡を継ぎますが、北近江支配の実権は浅井氏が握りました。

 

 この時の堀氏の動向も不明なのですが、浅井亮政が統治に行き詰まり、名目上の守護として高清を呼び戻すと、高清は伊吹山麓の上平寺城を居城としました。

この時の堀氏と鎌刃城は高清配下の京極家臣であった事が判っています。

 

尾根の傾斜は平坦になり、南北に細長い北Ⅳ郭があります

 

この郭の東下には細い帯曲輪が視認できるのですが、縄張り図には記されていませんね

 

その先の北Ⅴ郭は“副郭”とも言える広い郭で、武者溜りの郭ですね 簡単な井楼が復元されていました

 

この櫓からは六角領の湖東方面が遠望できます

 

ズームして見ると、係争地の戦況が視認出来ていた事が判ります

 

 

 浅井氏と京極高清の和睦で廃嫡となった高吉は六角氏を頼り、六角定頼の後援で江北に攻め込み、一時は鎌刃城も攻め取られてしまいます。

しかし、永禄3年(1560)に野良田の決戦で浅井氏が大勝すると、また回復するとともに堀氏は浅井家臣に組み込まれた様です。

 

 永禄10年(1567)に織田信長と同盟した浅井氏でしたが、元亀元年(1570)には突如離反して敵対します。

 当然ながら織田信長の侵攻を予期した当主の浅井長政は、美濃境にある上平寺城から鎌刃城のラインの諸城を強化改修して、ここで迎え撃つ決意をしますが、織田家臣の木下秀吉の調略(これは強力だ)を受けた堀氏(秀村)は織田氏の波に乗る事を決めたので、織田軍は中山道から容易に近江に侵攻できました。

 

烽火場としても最適な城ですよね

 

北Ⅴ郭にも大手の石垣枡形門が有った様です

 

北尾根先端の北Ⅵ郭にも井楼が組まれています  その手前に集水池…と思いきや、半地下式の大天守跡だそうです。 学者さんマジっすか?(^^;

 

井楼からは湖北がまる見え

 

美濃境の様子も良く判る立地ですね

 

Ⅵ郭の先は急激に落ち、林間には三重の堀切があって断ち切られている様です

 

 

 鎌刃城の全容を見て歩いて、周辺を監視する山城として最適な立地にある事が判りました。さらに最終の規模感から察すると、大名間の大きな戦いに際しても、敵の動きを察知して本城に伝える傍ら、守兵を率いて下山し、その背後を衝ける様な、多目的かつ有用な城であった姿が脳裏に浮かびました。

 

 周辺が織田領として確定した天正2年(1575)、堀氏は信長により突如改易されてしまいます。 理由は、鎌刃城の機能が不要になった事と、元亀元年の寝返りの報酬が6~10万石と大きかった事などが挙げられます。

 鎌刃城もこの時に廃城になりましたが、堀秀村はその後は千石で秀吉に仕えた(秀長とも)と言いますから、厳しいものです。

 

あ~、この城は楽しかった!(^^)!