はや足掛け3年、最近は忘れた頃に戻って来る感じの熊野古道です。

今回、熊野市まで歩いたので、峠道区間はこれで終了、いよいよ大詰めとなりました。

 

 

 前回の終点のJR波田須駅からスタートします。

駅舎も待合のベンチも無い“超無人駅”ですから、無断でホームに入って行って奥に進み、フェンスの切れ目から外に出ると、地元の方の通用路の細道が繋がっています。

究極のローカル駅の風情ですね(^^;

 

 

 

 

 国道沿いの集落へと登って行く細道の周りは棚田になっていて、田植えを終えたばかりの水田が続きます。

意外にも耕作放棄された水田は少なく、管理されてるのはたぶん高齢者でしょうが、今もなほ昔の活力を感じる村の風景です。

 

 

 

 

 国道まで登って来ました。

ここからが本来の熊野古道の続きですが、あらためて周りの景色を眺めると…。

急な斜面には海岸まで棚田が続き、その上に張り付く様に民家が点在し、背後の険しい山は山頂まで植林がなされています。

 

 厳しい環境でも創意工夫と地味な努力の積み重ねで克服して来た“日本人の強さ”の原点

を見る思いがします。

 

 

 

 

 

 しばらく国道を歩くと『大吹峠』の入口が現れ、次いで熊野古道入口になります。

新宮(終点の速玉大社)まで30㎞… ゴールが見えて来た感じ(^^)

 

 

 

 

 

 大吹峠は標高203m、比高は100mほどなので、これまでの峠道に比べて低い難易度です。

例にもれず岩盤の山なので、土砂が流失しないのか、石畳も古いのがそのまま遺っていますね。

 

 

 

 

 15分ほどの登攀で峠に着きました。

猪垣でしょうが入り口には石垣が積まれ、虎口を形成しています。

石垣は二重に造られて枡形になっていますから、本格的ですね(^^;

 おそらく入り口には木戸が設けられ、夜間は閉鎖されたのでしょうが、何故こうも厳重だったのかと言えば、峠には昭和25年まで茶屋があって、繁盛していたそうです。

周囲には山菜などの食材が植えられていたので、それを守る猪垣ですね。

 

 案内看板によると、江戸時代のお茶代は1文(\100)、弁当代は5文(\500)だったそうです。

 

 

 

 

 

 

 峠から下る道は傾斜が緩やかで歩きやすい道のりです。

周囲は熊野古道には珍しく孟宗竹の林ですが、孟宗竹はタケノコが採取でき、樹皮は弁当を包む容器として重宝しますから、茶屋の関連ですね。

 

 

 

 

 中腹まで下りて沢が近付いて来ると、人間の生活の痕跡が現れます。

最初は石垣を積んだ畑跡に始まって、民家の跡も…崩れた廃屋に当時の生活用品や農機具が有ったりします。

そして、小さいながら石垣の上面をコンクリートで固めているのは…田んぼの跡ですね。

 明治後期から戦後にかけては、人口の急増から食糧難で、こんな谷間の奥にまで人間の生活が有ったのです。

 石塚にシキミが供えられ、まだ手入れされてるのを見ると、かつての住民が麓でまだご健在なのでしょうか…。

 

 

 

 

 

 

 さらに下って行くと、白い花の群落が眼に飛び込んできます。

何の花だろ?…と近付いて見ると、ウツギですね。

田んぼの畔にあたる場所に植わっているので、『卯の花』が咲くのを待って田植えを始めた昔の光景が蘇って来る様でした。

『夏は来ぬ!』

 

 

 

 

 大泊の人里に下りて来ました。

海岸沿いの国道に近いこの辺りには、石切り場の跡が目立ちます。

しかし…こんな風に、熊野の山々の中身は花崗岩100%なんですよね(^^;

すぐ対岸に見える“鬼ヶ城”が巨大な一枚岩ですから、当然と言えば当然なんですけどね。

 

 

 

 

 

 海岸に出たらちょうど昼時になったので、大泊の浜で昼食にします。

メニューは今回も熊野古道定番の『さんま寿司&めはり寿司』。

特にシンプルな『めはり寿司』はいつしか我が家のお気に入りになっていて、冬の菜園にはシッカリ高菜が植わっている今日この頃です(^^)

 

 

 

 

 

『松本峠』に続く