4月16日、俳優で名わき役の柳生博さんが85歳で亡くなられました。

柳生さんは柳生石舟斎(宗厳)の末裔を自認していましたが、季節も春たけなわ、この機会に柳生の里で“春の坂道”を歩いて来ました。

 

 大和の国人豪族:柳生氏については、山岡荘八さんの『柳生宗矩』を始めとして、多くの作家に取り上げられていますが、深作欣二さんの『柳生一族の陰謀』の様に、幕府の裏で暗躍する“闇組織”のイメージが定着していますね。

 殆どが創作だと思うのだけど、実際の史実の柳生氏はどんな氏族だったのか…柳生の里で偲んで来ました。

 

位置関係 柳生の里は現:奈良市柳生町 山間の細い谷間です

 

笠置から奈良に抜ける柳生街道は遊歩道として整備されています 大望を抱く武芸者達が歩いた道ですね

 

 

【柳生氏とは】

 柳生氏は江戸初期に書かれた家譜によると、源流は菅原氏の支族となっています。

その真偽はともかく、平安中期に藤原頼道の領地だった柳生の里は南都の春日神社に寄進され、その管理のために大膳永家が荘官に任じられたそうです。

この永家の子孫が柳生氏に繋がって行ったものと思われます。

 

 鎌倉末期の元弘三年(1331)、後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒を目指し笠置山で挙兵しました。

永家の10代後裔だった永珍は天皇の元に馳せ参じ幕府軍と戦いましたが、この時は敗れて、永珍は柳生の里を追われてしまいます。

 しかし3年後に後醍醐天皇が隠岐を抜け出して再度挙兵し、鎌倉幕府が斃れると、柳生の里と周辺は永珍の領地に戻され、これを機に“柳生氏”を名乗りました。

 

 鎌倉期の大和には守護はおらず、興福寺の管理でしたが、室町期になると荘官などの国人が横領を始め、越智氏、筒居氏、木沢氏などが中心になって戦国時代に入って行きます。

柳生氏は主に木沢氏の配下の小豪族として生きて行った様です。

しかし、戦国中期の天文11年(1542)、木沢氏は筒井氏によって滅亡し、2年後には筒井氏の大軍が柳生にも攻め寄せて、柳生氏は筒井氏の軍門に下りました。

 

柳生古城跡 後醍醐天皇に呼応した永珍はこの山上に籠って幕府軍を迎え撃ちました

 

柳生城跡(正面の山上) 柳生家厳・宗厳親子は筒井軍1万に囲まれ、三日間抗戦しました

 

 

【武将よりも剣豪の道へ 柳生宗厳】

 永禄二年(1559)、畿内を席巻した三好長慶は重臣の松永久秀に大和の征服を命じます。

柳生氏の当主は永珍から8代目の宗厳の代になっていましたが、宗厳は時流を見据えて久秀に与する事とし、早々に鞍替えしています。

 宗厳は若年から剣術を好み、特に武勇に優れた武士だった様で、多武峰合戦では獅子奮迅の働きを見せて久秀を喜ばせ、その武名は畿内に鳴り響いたそうです。

 

 その噂を聞いたのが上洛していた新陰流の名手:上泉信綱で、さっそく柳生を訪れて試合を申し込みます。

実際に手合わせしたのは信綱の弟子の疋田豊五郎だった様ですが、結果は宗厳の完敗で、自身の未熟さを恥じた宗厳はその場で信綱に弟子入りを請願しました。

 

 信綱は宗厳に“無刀取り”の課題と1年間の猶予を与えて柳生を後にしましたが、翌年に訪れた信綱の前で独自に考案・研鑚した無刀取りを披露し、『一国一人印可』を授与されているので、見事に課題をクリアしたのでしょう。

さらに翌年には『新影流目録』を与えられていますから、『柳生新陰流』の誕生ですね。

 

柳生の里は徒歩で巡りますが、観光駐車場は有料です えっ?…て感じですが、ここは関西です(^-^;

 

柳生城の山裾にある柳生陣屋跡

 

 

 こうして剣術家・兵法家としては躍進した宗厳でしたが、武将としてはツキがありません。

松永久秀には重用されたものの、その久秀自身が滅亡してしまい振り出しです。

おまけに信長は大和を宿敵の筒井順慶に与えたので居心地が悪く、この期間は関白の近衛前久に仕えた様です。

 

 豊臣秀吉の世になると、大和は豊臣秀長に与えられ筒井氏の家臣団は伊賀への移住を強制されます。

臣従せずとも柳生氏もその対象とされ、柳生の里(2000石)は召し上げられてしまいます。

 柳生家離散のピンチに、さすがに気の毒に思ったのか、豊臣秀次が近江で100石の知行を与えていますが、経済的には相当厳しい状況ですね。

 

 剃髪して石舟斎を名乗っていた宗厳は、これを機に剣術と兵法の指南を本業としました。

特に毛利輝元とは親密に接し、多くの代価を得ていた様です。

 さらに、黒田長政の紹介で徳川家康に逢った宗厳は、家康自身の太刀を無刀取りして見せて、その場で弟子入りと200石の知行を示され、江戸への出仕を要請されました。

この時67歳だった宗厳は固辞し、代わりに5男の宗矩を推薦して承諾されています。

 

 毛利、徳川に留まらず、肥後加藤家、備前小早川家、土佐山内家などにも弟子を派遣して『柳生新陰流』の剣術に専念した晩年の宗厳。

武家としては大成できなかったものの、輝きと充足感は有った事でしょうね。

 

陣屋大手付近にある鏡石(?)の大石

 

微妙な形で御殿跡が復元されています

 

おそらく、戦国時代までの柳生氏居館がそのまま陣屋になったのでしょうね

 

 

【大名になった 柳生宗矩】

 宗矩が家康に仕官したのは23歳の時です。

兄が4人居ましたが、長兄は重い戦傷を負い、二人の兄は僧籍で、すぐ上の兄は毛利(小早川家)に居たので、偶然の必然でした。

 剣術指南役200石のスタートでしたが、6年後の“関ヶ原の戦い”では西軍の後方攪乱に功があり、論功行賞で大和柳生2000石を貰い、父の代で失った旧領回復を果たします。

 翌年に将軍:秀忠の兵法指南にも就任した宗矩は1000石を加増されて、3000石の大身旗本になります。

慶長20年(1615)の大坂の陣では秀忠の傍近くに居て、本陣に乱入して来た豊臣兵7名を一刀のもとに斬り伏せたと言います。

 

 将軍が家光になると、宗矩への信任はますます深まり、寛永9年(1632)には3000石の加増で諸大名を監察する大目付に就任します。

家光の改易ラッシュと一致するので、宗矩が大きな役割を果たしたのは間違いないですね。

 その功からか、寛永13年(1636)には4000石が加増され、ついに大和柳生1万石の大名になりました。

 

現存する国家老:小山田屋敷 柳生では実質ここが中心だったのでしょう

 

小山田氏はあの甲斐郡内小山田氏の末裔だそうです

 

この屋敷は昭和39年に作家の山岡荘八さんが買取り、『春の坂道』はここで構想を練ったそうです。 近年に長男の山岡賢次氏(元民主党議員)から奈良市に寄贈されました。

 

 

 宗矩への加増はその後も続き、最大12500石まで上がります。

宗厳が果たせなかった武家としての夢を実現した宗矩…という事になりますが、政治的な適性に優れていただけでなく、『柳生新陰流』の深化にも取り組み、多くの門弟を育てて普及しています。

 特に、幕府が安定し平和な時の“剣技”の意義については、剣を持つ武士のメンタルを重視し、「万人を苦しめる悪人を確実に仕留め、平和をもたらす事こそが真の剣技だ」とする『活人剣』を提唱しています。

その後の『武士道』の基盤になるもので、現代にも通じる“強い者の在り方”です。

 

藩主を迎える奥座敷の前には見事な庭が広がります

 

展示の家系図

 

さすがに宗矩の弟子は全国から集まっています

 

 

【奔放な二代目藩主 柳生三厳】

 三厳は宗矩の長男で慶長12年(1607)に生まれました。

通称:十兵衛、千葉真一さんがハマリ役の隻眼の剣豪ですね。

10歳の時に3歳年長の家光の小姓として出仕しますが、相当に元気な子だった様で、剣術の稽古でも家光に忖度する事も無かったので(想像)、20歳の時にはついに勘気を被り、蟄居となってしまいました。

 小姓は弟の友矩が勤め、三厳は領地の柳生に戻って祖父や父の口伝や目録を基に兵法の研鑚に励んだとも、武者修行に諸国を放浪したとも言われており、この12年間の空白がのちに“剣豪:柳生十兵衛”の創作に繋がったのは間違いなさそうです。

 

 寛永15年(1638)、家光に仕えていた友矩の病気療養(翌年病死)を機に再出仕を許され、書院番として復活しました。

剣技は実際に強かった様で、三厳の行くところピリピリとした緊張感を醸す雰囲気があったそうです。

 

三厳が武者修行の旅に出る際に植えたと伝わる“十兵衛杉” 落雷で枯れましたが、隣に二代目がもう大木に育っています

 

なんか保存処理がされてるんでしょうかね?

 

 

 正保3年(1646)に父宗矩が死去します。

宗矩は死後は知行の幕府返上を遺言していた様ですが、事は家光に一任され、家光は三厳はじめ兄弟での分割相続を指示しました。

柳生氏の家督は長子の三厳としましたが、知行は8300石で、旗本としての相続です。

 

 家督を継いでからの三厳は一転して温厚になり、奴婢にも心を砕く慈悲深い当主だったと言います。

これには父の友人の沢庵和尚からの薫陶も大きかったと思われます。

 

 家督相続の4年後の慶安3年(1650)、三厳は突如職を辞し、柳生に戻りました。

そして、鷹狩りに出掛けた領内で“急死”します。

死因は明らかにされていませんが、家光政権の最晩年でもあり、家督は弟の宗冬が相続した事から、やはり家光とは相容れない何かが有ったのかも知れませんね。

 

柳生家菩提寺の芳徳寺 拝観料は賽銭箱に入れる省人スタイルです(^^)

 

宗矩が宗厳を弔う為に創建し、開山は沢庵和尚です。 宗矩は末子の義仙を住職に決めましたが、兄達の様に武士になりたい義仙は反発し、ひと悶着あった様です

 

 

【その後の柳生氏】

 宗冬は主に4代家綱に仕え、将軍家兵法指南として『柳生新陰流』の伝授に努めました。

5代綱吉も、舘林藩主として宗冬に入門し、印可を与えられています。

宗矩が死んだ22年後の寛文8年(1668)、宗冬には1700石の加増があり、大名への復帰を果たして大和柳生藩3代目藩主となります。

(柳生藩では便宜上旗本待遇だった三厳を2代目藩主として扱っています)

 

 この後柳生藩は移封もなく、13代繋いで明治を迎えますが、将軍家兵法指南を歴任したため藩主は江戸定府であり、柳生に戻る事は殆ど有りませんでした。

現在、柳生の里を歩いて見ても、城下町の雰囲気が殆ど感じられないのはその為で、領国経営は国家老任せで、藩政の機能や剣術道場などはすべて江戸屋敷(虎ノ門)に有った様です。

 

柳生家累代の墓所 家厳以降の当主と妻子の墓石がズラリ並びます

 

奥が宗矩の墓で、手前左に宗冬、右に三厳と宗在の墓が並びます その間の奥に見える小さな五輪塔が宗厳(石舟斎)の墓ですから、これは…

 

 

 5代藩主:俊方には子が無く、従弟の副隆と弟の隆久を相次いで三田藩九鬼家の養子に出していた為に後嗣がなく、桑名藩松平家から養子を迎えて6代目を託しました。

これで宗矩の血脈は途絶えた訳ですが、続いて真田家、松前家、柳沢家、田沼家、高家武田家と、養子の連続で繋いでいますから、血筋としてはもう全く別物ですね。

 

 一方で宗厳の長男:厳勝の子の利厳(兵庫助)は柳生一族で一番の剣士と言われ、のちに尾張徳川家に仕えて兵法師範となり、子孫は『尾張柳生家』として血脈を繋ぎました。

ただ血筋の正統性と家格のアンマッチゆえか、江戸期を通して『江戸柳生家』との交流、親戚付き合いは一切無かったそうです。

通字の通り、厳しいものです…。

 

 

**************************************

 

 

柳生の道すがら、“牡丹寺”にも寄って来ました。

満開の最盛期に合わせられたのは初めてです(^^)

 

 

 

 

 

牡丹はもちろんですが、大手毬が見事でした。 自宅にも植えようか思案中(^^;