春が来て、桜の開花に合わす様に娘が出産し、無事に孫娘が産まれました。
齢を重ねてから血を分けた家族が増える事は、また格別ですね。
喜びと活力が体内から湧き出す感じで、いつもの近所の桜並木も例年にも増して咲き誇って見えます。
翌日、浮かれついでに、“桜の名所”で楽しもう…と出掛けた先は、京都の笠置町。
JR駅の裏手にあるキャンプ場では、町主催の“桜まつり”が開催中で、そこそこ賑わっていました。
笠置の桜は、取り立てて見事という程でもなく、花見だけならもっと近場の名所でも良かったのですが、此処には笠置山(笠置寺)が有ります。
鎌倉末期、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して旗上げした『元弘の変』の現場ですね。
駅前にはそれを模したモニュメントも有りました。
こっちが本命だったか…(^^;
笠置山へと向かいます。
山上まで車で行けますが、ここは敢えて歩道を登りました。
元弘元年(1331)8月、鎌倉幕府打倒のため京を脱出した後醍醐天皇は、奈良東大寺を経て笠置山に入り挙兵しました。
笠置山には笠置寺という山岳寺院があったので、そこに籠って幕府軍に対峙した訳ですね。
同時に吉野では護良親王が、河内の赤坂では楠木正成が挙兵しています。
比高差は200m弱の山ですが、歩道は急坂続きで登り応えがあります(^^;
しかし、よく整備されているので、20分強では7合目の寺院に着きました。
後醍醐天皇には三河の郷士:足助重範などの有志3千名が従っていましたが、幕府は北条一族や足利高氏ら御家人が率いる7万5千名もの大軍で攻め立てたと言います。
山門に着きました。
拝観料(\300)は維持管理の協力金みたいで、任意の様ですが、ここは気持ちよく協力させてもらいます。
笠置寺の寺域は、急な斜面に花崗岩の巨岩がゴロゴロした大軍を動かしにくい厄介な地形で、天皇側の神出鬼没の攻撃に翻弄された幕府軍は、ひと月が経過しても攻撃の糸口を見出せませんでした。
笠置山の象徴の“笠置石”
奈良時代に訪れた天武帝が、後日摩崖仏を掘ろうと目印に笠を置いて行った事から、笠置山の地名になったそうです。
攻めあぐねた幕府軍は、少数精鋭の“特殊部隊”を編成し、風雨の強い夜間を待って裏山の崖をよじ登って侵入させ、寺の堂塔に火を掛けて廻ったので、動揺した天皇側は四散し落城してしまいました。
寺内をめぐる遊歩道(修行道)には巨石がゴロゴロ。
それぞれに摩崖仏が掘られ、寺の本尊でしたが、元弘の兵火で失われたものも多い様です。
千手堂脇の虚空蔵菩薩(虚無蔵ではない…)だけは健在です。
辛くも笠置山を脱出して有王山に逃れていた後醍醐天皇は、まもなく幕府軍に捕らえられて六波羅に送られ、次いで隠岐の島へと流されてしまいますが、その過程で足利高氏は面識を得る場が有ったのでしょうね。
山頂からは木津川の上流(月ヶ瀬方面)から下流(宇治方面)の大和街道が見渡せ、要衝の地であった事が判ります。
この辺りの遊歩道は険しく適度にスリルも味わえて、“修行の道”らしさがありました(^^;
幕府執権北条氏とその家来である御内人:長崎氏の専横に辟易とし、ひそかに“その日”を待っていた高氏にとって、後醍醐帝の人柄とカリスマ性は、一縷の“光明”に見えたかも知れませんね。
山頂は削平されて柵で囲われ、『後醍醐天皇行在所』となっていましたが、土塁囲いもなく吹きっさらしの場所なので、実際に“仮御所”が置かれたのは南側直下の“もみじ公園”となっている削平地なのでは? …と思います。
後醍醐天皇は2年後に、名和長年の手引きで隠岐を脱出し、伯耆船上山で挙兵しますが、幕府討伐軍を率いて上洛した足利高氏は寝返って合流したので、鎌倉幕府は脆くも瓦解してしまいます。
高氏は鎌倉を出る時にはもう“幕府打倒”を決意していた様ですから、この笠置山が時代の分かれ目になった場所なのかも知れません。
久々に“太平記”の世界に浸れました(^^)