高天神の後編です。
一城二郭のこの城、後編では西の郭を紹介します。
『甲陽軍鑑』によると、武田氏に依る高天神城の攻略は、新当主の勝頼にとって大きな自信となった様で、経験豊かな宿老の声は聴こえなくなり、Yes manのみ集めた側近政治に邁進した結果、翌年の“設楽ヶ原”での大敗に繋がって行きます。
近年のメディアでは『勝頼は実は有能な名将だった…』的な論調が目立ちますが、高天神城での顛末を見るだけでも、信玄の遺産といえる多くの将士を浪費しての強引な力攻めで勝ちを収めただけであり、その上で降伏した敵兵を悉く赦して開放し寛容な度量を示します。
しかしこの寛大さがその後、徳川の高天神城奪還戦に効いて来る訳です。
東西の郭を繋ぐ井戸曲輪はまとまった平場が有り、搦手に討って出る馬出しも兼ねています
井戸は小さめで、大兵を養うのは無理ですね 奥の石段は高天神社のもの
その脇にある戦死者の慰霊碑 一次、二次合わせて、千人以上がこの山で戦死しているでしょう…
西ノ丸に建つ高天神社の社務所 堀切の標柱は、どこを指すのか判りませんでした
【第二次高天神城の戦い】
天正3年(1575)5月、織田軍の加勢を得て長篠の戦いに大勝した徳川家康は、すぐさま武田軍に占拠されていた二俣城、犬居城など、東遠江の城の奪還に動きます。
もちろん高天神城もその対象で、8月にはまず補給拠点となっていた諏訪原城を攻めて奪取しました。
高天神城の攻略に配されたのは、前年の落城時に降伏して浜松城に戻って居た大須賀康高で、康高と同様に落城の憂き目を見た渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣ら旧小笠原家臣が与力として付けられ、西隣の馬伏塚城に入りました。
城を良く知り、リベンジの意気に燃える彼らに奪還の機会を与えた訳ですね。
家康は高天神城は力攻めを避け、康高に命じて海沿いの西側に攻略拠点となる新城:横須賀城を築かせます。
また、高天神城の周囲には付城を築かせて囲み、城の孤立化を狙いました。
横須賀城と6砦の位置 馬伏塚城はさらに西の山地の西麓にあります
高天神社が本丸から此処へ遷されたのは、江戸中期の事です
西ノ丸から南西に延びる尾根は、深い堀切で隔てられています
堀切を渡った馬場平 馬場という程の広さは有りませんが…
馬場平の先端からある“抜け道” 横田尹松が脱出した道だそうですが、よく徳川方に見つからなかったものです
馬場平からは南側がよく見渡せます
武田の占領地で西に突出した高天神城への補給は、勝頼にとっても優先事項のひとつであり、相良城を築いて小山城から海沿いに補給路の確保を試みます。
高天神城へは新たに軍監として旗本の横田尹松が入城し、守備兵は千名を超えた様です。
高天神城への補給をめぐる武田vs徳川の攻防は一進一退で天正8年(1580)まで続きましたが、信康事件が落着すると家康は高天神城攻めに本腰を入れます。
10月に5千の兵を率いて自ら横須賀城に入ると、大須賀康高をはじめ石川康通、本多康重、酒井重忠らに付城(6砦)を守らせて、補給路を完全に遮断してしまいました。
12月になると徳川軍は攻囲を狭め、1万の軍が山裾にグルリと展開しました。
徳川の陣には織田信長の使者が度々訪れ、対武田戦略が整合されていた様ですが、2年後の“甲州征伐”の布石はもうこの高天神城攻めから始まっており、『一気には落とさず、見殺しにさせ、勝頼の名声を貶める事』がこの戦いの大義だった様です。
『武田は滅ぼす』が信長の意志だった訳ですね。
一度井戸曲輪に戻って、北西の二ノ丸へ向かいます ここも北斜面は絶壁ですね
二ノ丸の虎口となる、袖曲輪
二ノ丸ですが、あまり広くはありません 左の土手の上に西ノ丸があります
二ノ丸の下の曲輪にある、本間氏清、丸尾義清の慰霊碑 二人は兄弟で、天正2年の戦いでともに武田軍の鉄砲に狙撃されて戦死しました
天正2年の戦いは徳川方に戦死者が多かったせいか、慰霊碑が充実しています
この辺りの南斜面は比較的傾斜が緩やかなので、横堀が配されて防備を強化していますね 岡部元信の仕事か?
兵糧の備蓄に乏しかった城内はたちまち困窮し、城将の岡部元信は再三勝頼に援軍要請をするのですが、甲越同盟に怒った北条氏は駿河と上野で攻勢を強めており、窮状を打開したい勝頼はなんと信長との関係改善を模索していた時でもあり、苦悩します。
“勝頼何やってんだ”と言うか、景勝を選んだ戦略眼の弱さが導いた結果ですけどね。
また、軍監の横田尹松からは『救援に来れば織田・徳川の思うツボ、ここは自重し高天神城は見捨てる様に…』との報告も届き、結局は勝頼が出陣する事はありませんでした。
余談ですが、横田尹松は武田家滅亡後は徳川家康の旗本として5千石の高禄で迎えられ、子孫は火付盗賊改などの要職を務め、最高9千5百石の旗本最高位で遇されています。
ちょっと匂う感じもしますね…。
翌天正9年も3月になると、城内の兵糧はいよいよ尽き、餓死者が続出する事態になってしまいます。
3月25日、最後の刻を決意した岡部元信は、動ける兵6百余りを引き連れて石川康通の陣に攻め掛かり、全員玉砕しましが、横田尹松だけは馬場平にある隠し道から脱出に成功し、甲斐に戻って勝頼に戦況報告をしています。
その先は痩せ尾根になり、幾つかの堀切で寸断された堂の尾曲輪になります
堀切は崩落も少なくリアルですが、見学する方も大変でした(^^; これでは戦いの中身が銃撃戦であったのも頷けますね
曲輪といっても平場は殆どなく、通路のみの馬の背です
北西突端は物見台の井楼曲輪で終わっています
その先は断崖絶壁! 日本城郭体系を執筆された小和田先生は“西ノ郭”を造った事が敵の侵入を容易にし、落城に繋がった…と書かれていますが、そんな弱点は見付ける事が出来ませんでした(^^;
城内には本多忠勝と榊原康政、鳥居元忠の隊が攻め込んで掃討戦を行ない、名の有る将士はすべて処刑したそうですから、家康(信長の命令)には敗者への寛容さは微塵も無く、徹底していた訳です。
戦後に高天神城は廃城となりました。
了