諏訪原城と同じく、12年ぶりに高天神城へ登城します。

武田、徳川がらみのドラマでは必ず出て来る城で、城の規模や造りよりも、激しい争奪戦の跡として有名な城ですね。

前回、搦手からの登城だったので、今回は大手から登ってみます。

 

 

日本200名城 №147 高天神城 静岡県 登城日:2021.12.10

 

 

 別名          鶴舞城
 城郭構造    連郭式山城

 標高/比高   132m/104m
 天守構造     なし
 築城主        不明
 築城年        16世紀初頭
 主な改修者  武田勝頼
 主な城主     福島氏、小笠原氏、岡部氏
 廃城年        天正9年(1581)
 遺構           曲輪、土塁
 指定文化財  国の史跡

 所在地      静岡県掛川市上土方嶺向

 

 

 高天神城が有るのは旧名:遠江国城東郡の菊川流域の平地(菊川平野)を見下ろす西側の鶴翁山の山上です。

遠州灘に面したこの地にはまとまった平地が有り、江戸初期には4万石の石高ですから、遠江有数の穀倉地帯だった様です。

 しかし、三方を険しい山に囲まれた地形と大井川、天竜川の渡河の利便から、当時の人流・物流は北の磐田→掛川→金谷を辿る東海道に集中していた様で、街道や商業の発展はなく、独立性の強い地域でもありました。

 

位置図 西に突出してるので、武田氏にすれば中間に繫ぎの城が欲しいところ…

 

追手口(南側)の駐車場と入口

 

現地看板 一城別郭の縄張りだが連繋機能は薄く、戦力分散が懸念されます

品切れなのか、右下のポストに城址パンフは有りませんでした

 

現地看板より縄張図 等高線の密度が天嶮の城なのを顕していますね

 

 

 高天神城の初見は、永正10年(1513)に今川家臣の福島助春が城主になった時ですが、その時点では既に城が有った様で、在地の国人が緊急時に避難する砦を構えていたのでしょうね。

 福島助春の跡を継いだ正成は、天文5年(1536)に今川氏の内訌:花倉の乱を起こして敗れ、滅亡します。

この時、正成の子:勝千代は北条氏綱の元に逃れ、“北条の子”として養育されて、後に“地黄八幡”の猛将:北条綱成になった…と言われますが、これは諸説あります。

 

 高天神城には代わって今川の臣:小笠原氏興が入り近郷の支配拠点としましたが、永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間で斃れ、今川氏の弱体化が始まって徳川家康が遠江に侵攻して来て曳馬城(浜松城)に居座ると、いち早く家康に内応して掛川城を攻め、今川氏滅亡に積極加担しました。

 

最初から急な上り坂

 

路傍にある大杉 樹齢はそう古くはなく、天神社の神木か?

 

すぐに現れる追手門跡 山県昌景の力攻めでは、城兵75名、攻め手は253名が失われたそうです

 

追手門を抜けると有る到着櫓と三ノ丸の平場

 

追手道を多くの狙撃兵で上から狙えるので、メチャ厄介な曲輪です

 

 

【第一次争奪戦】

 徳川と武田では、今川領の収奪は大井川を境に、つまり遠江と駿河での棲み分けが約されていましたが、畿内の情勢の急転に武田信玄は“西上”を決意し、遠江、三河の徳川領を窺う様になります。

 元亀2年(1571)、信玄は2万5千の兵力で大井川を渡り、高天神城まで攻め寄せた…という説があります。

この時は追手門に攻撃を仕掛けたものの、容易に破れない事を見届けると、即日引き揚げた…と言われます。

 近年、この侵攻は翌年の西上作戦の一環ではなかったのか?(駿河から侵攻した)という説が出ていますが、甲陽軍鑑にも『信玄公が落とせなかった高天神城…』という記述が有りますから、何らかのアプローチをした事は確かな様ですね。

 

三の丸は周囲の土塁がよく遺っています

 

その先は、もう崖なので、子供連れの登城は細心の注意が必要ですね

 

三の丸からの東の眺望 右のポッコリ山は徳川軍の火ヶ峰砦跡です

 

西ノ丸へと続く帯曲輪

 

 

 武田軍が本格的に高天神城を攻めるのは、勝頼の代になった天正2年(1574)の事です。

前年春に信玄が陣中で没して、西上作戦を切り上げた武田軍でしたが、兵の損耗は殆ど無く、すぐに遠江に侵攻すると、大井川西岸に諏訪原城、小山城などの橋頭保を築いていました。

 対する徳川軍は、三方ヶ原での痛手が大きく、これを阻止する術がありませんでした。

 

 2万5千の兵力で侵攻した勝頼は、守りの固い掛川城ではなく、守兵の少ない高天神城に向かい、5月の末には包囲を完了します。

 高天神城の守兵は小笠原信興が率いる千名余りしかおらず、籠城戦となる一方、家康の元には援軍要請の伝令が送られました。

しかし、背後の三河山間部からの両面作戦を警戒する家康は兵を動かせず、苦肉の策で織田信長に援軍要請するものの、信長も畿内で手一杯で、即応する余力はありません。

 

山頂の御前曲輪に着きました 細長い緩傾斜の平場があり、本丸へと続きます

後ろのコンクリ基礎は昭和初年に建てられ落雷で焼失した模擬天守の跡だそうです

 

平場の中ほどにある天神様の祠 現在の天神社は西ノ丸にあります 当時は此処に有ったから“高天神”なのでしょうね

 

周囲は岩盤剥き出しの絶壁に守られています

 

大手虎口か?

 

本丸の削平レベルは高いので、居館が有ったのでしょう

 

 

 そうこうしてるうちに武田軍の総攻撃が始まります。

断崖絶壁に守られた高天神城には、正規の通路しか攻め口は有りませんが、武田軍は損害を厭わない力攻めを行ない、6月18日には山県隊によって追手門が破られます。

28日には内藤隊によって西の郭全体が落とされて、残るは東の主郭のみとなっていました。

 ここで勝頼は、穴山信君に命じて“降伏交渉”をさせます。

勝頼の処置は寛大で、城兵は全員助命としその後の身の処し方も自由という条件でした。

 籠城60日、再三の援軍要請に何の音沙汰も無い家康に呆れていた信興は、7月2日にこの条件を受け入れて降伏する事を決め、9日には開城し退去しました。

 

 信興は新たに勝頼に臣従する事になり、東駿河に知行地を与えられて移り、多くの将兵もこれに従いましたが、大須賀康高など徳川に残留を希望した者もそれを許され、浜松城へと去って行きました。

 ただ一人、降伏自体を認めず、抵抗を試みた大河内政局は捕縛されて城内の石窟牢に入れられ、以後7年間に亘り監禁される事となります。

 

こちらが搦手虎口か?

 

本丸下にある的場曲輪

 

その下段の馬場曲輪

 

的場曲輪の奥、本丸切岸に穿たれた石窟 前回来た時はちゃんとした洞穴で、中が覗けたのに…

ここで7年は厳しいので、実際には岡部元信は大河内政局をもっと紳士的に遇したのでしょうね

 

 

 武田の城としては西に突出し過ぎた感のある高天神城の立地ですが、勝頼は新たな城主に地元出身の岡部元信を任命し、兵千名で守らせます。

翌年には長篠で大敗したものの、勝頼の戦後処置による好感度も相俟って、東遠江での高天神城をめぐる攻防は、長く続いて行くのです。

 

 

《後編》へとつづく