夕刻迫る韮山を後にし、伊豆西海岸に出て、長浜城を訪ねました。
軍事上の重要度や、歴史上に大きな戦いが有った大規模な城ではありませんが、近世での改変が最小で、“水軍の城”としての遺構が良く遺る事から、国の史跡にも指定されている見どころの多い城址です。
伊豆の城 伊豆長浜城 登城日:2021.12.9
別名 重須(おもす)の城
城郭構造 連郭式山城
標高/比高 30m/30m
築城主 不明
築城年 不明
主な改修者 北条氏政
主な城主 土屋氏?、梶原景宗、大川兵庫
廃城年 1590年(天正18年)頃
遺構 曲輪、堀切、土塁、空堀
指定文化財 国の史跡
所在地 静岡県沼津市内浦長浜小字城山
長浜城の築城時期は資料が無く不明なのですが、北条早雲が伊豆に入った明応2年(1493)頃には、在地の海賊(海運を生業とする者)が既に簡易な砦を築いていた様です。
この地の土豪といえば、城の西の重須に館を構える土屋氏が居り、資料は無いものの地理的状況から、土屋氏の城で間違いないでしょう。
位置関係 韮山城の属城として、武田水軍の三枚橋城に対抗して整備されました
現地看板より 後世の埋立地を除くと、内浦湾に付き出した岬だった事が判ります
現地看板より 水軍城の性格上、見張りと戦闘指揮が主で、長期の籠城には向きません
登城口にある立体模型
城址の東麓の釣り堀の所に専用駐車場(5~6台)とトイレがあり、登城口になっています
この城が脚光を浴び、本格的に整備されたのは天正7年(1579)の事で、武田氏との甲相同盟が破れ、戦端が開かれた事に依ります。
武田勝頼は国境に近い沼津の狩野川河口に三枚橋城を築き、此処に武田水軍を集めて、水陸からの伊豆侵攻の意志を顕わにします。
対する北条氏政は、要地の韮山城の防備を固めると同時に、西海岸からの上陸に備えて、内浦湾に長浜城と獅子浜城を築城して、これに備えたそうです。
長浜城には小規模ながら湊が有った事から、さらに大規模に改修工事を施して、北条水軍の一拠点として整備し、水軍のスペシャリスト:梶原景宗に守らせました。
木製の立派な階段で一気に登れますが、これは賛否両論ありますね
登り着くと3曲輪と4曲輪の間の堀切
4曲輪は東端の郭で、見張り所か?
3曲輪への石段 前に2曲輪の切岸が聳えています
3曲輪と2曲輪の間の堀切 曲輪間は跳ね橋で渡った様で、橋脚を顕す丸太の復元がされています
梶原景宗はかつては紀伊国の熊野海賊の一人でしたが、九鬼善隆が統一する過程で北条氏に鞍替えした様ですね。
同じく武田水軍の岡部氏も、伊勢北畠氏の水軍残党が今川氏に移った経緯を持つ氏族ですから、この時代の東国では熊野の海賊が重用されていた様ですね。
両者は、天正8年(1580)に沼津に近い駿河湾上で激突(駿河海戦)しています。
戦いは夜明けから日没まで繰り広げられて、勝負は付かなかった様ですが、最後は武田方が“陸からしきりに鉄砲を撃ち掛けた”とありますから、北条水軍が優勢だった様ですね。
3曲輪には弁天様が祀られています 弁財天は元々は水の女神ですから、地元の漁師さんの神か? こうゆうのが有ると定期に整備され、荒れにくいですね
お社は土塁で守られています(^^;
2曲輪から見下ろす3曲輪 跳ね橋は廊下門も兼ねていた? この虎口は死角なく強化されていますね さすが北条の城らしい
振り返ったら2曲輪 2棟の掘立柱建物があった様ですね 1曲輪へは物見櫓状の階段が復元(?)されています
2曲輪と1曲輪の間の堀は、貯水池も兼ねていた様です
その後、両者の睨み合いは天正10年(1582)の武田氏滅亡まで続き、海上での小競り合いも幾度か有った様ですが、その後に駿河を治めた徳川氏とは比較的友好な関係であったため、長浜城の“水軍の城”としての機能はさほど重要ではなくなって行きます。
秀吉の小田原征伐でも、梶原景宗は下田から小田原の沿岸で豊臣の水軍と対峙したので、
長浜城での海戦はありませんでした。
(小早川水軍と戦って負けた…という説もある様ですが)
長浜城は本城の韮山城と同様に籠城戦術を採り、長浜の土豪:大川兵庫が入って守ったそうですが、韮山城の開城に合わせて降伏し、それを機に廃城となった模様です。
2曲輪から海辺へと降りて行く通路も木橋が設えてあります 遺構の損壊が激しい場所なのかも
最高所の1曲輪にも建物跡 これは物見櫓でしょうね
1曲輪から見た城の東側 遠く三枚橋城の方向が見通せます
1曲輪から見た城の西側 兵船が停泊していた場所は現在も船溜まりでした
曲輪が階段状に並ぶ北の尾根を海辺まで下りて行きます
その後の長浜城址は放置され、荒れるに任せていた様ですが、明治になって果樹園が営まれて、ミカン畑になりました。
昭和になると、三井家が買って別荘が建てられましたが、それも戦後には使われなくなり、昭和40年には建物も撤去されて、山林に戻っていました。
城遺構の損壊を憂えた沼津市は、精緻な調査を行った上で土地を買い取り、文科省の史跡認定を受けて復元整備を進めて、現在の姿になりました。
これらの事業費は巨額ですが、それだけに訪れやすい、見学しやすいインフラが整えられています。
城址の消滅を防ぐ為にも、是非たくさんの人に訪れて欲しい城址です。
岩場には岩礁ピットも有るそうですが、発見できませんでした
また2曲輪に戻って、南側の根古屋の方に下りて行きます 古い石垣がありましたが、いつ頃のものかは不明
土豪:土屋氏の館があった重須の町並 たぶん平時の根古屋でしょう
ガイダンス復元された安宅船の甲板(50丁魯) この城にも1艘配備されていました
北麓から見る城址
=完=