明けましておめでとうございます。

例年通りに遅めのスタートですが、昨暮の静岡ツアーの続きを投稿して行きます。

 

 史跡の多い韮山。

平安~鎌倉期の北条邸に、室町期の堀越御所、そして戦国期の韮山城と続き、最後は江戸期の韮山代官所(江川邸)&反射炉です。

 “江川太郎左衛門英龍”の名は幕末を学ぶとよく出て来ますね。

天領伊豆の代官でありながら、開国交渉と国防に奔走した偉人の一人という認識が一般的ですが、その人となりを深く調べる機会は多くありませんでした。

しかし、この人もとても奥の深い人間だった様なので、この機会に触れてみます。

 

位置関係 江川邸は韮山城の東にあり、城と一体化しています。 領地の江川庄は城の南だった様で、反射炉はここに築かれました。

 

江川英龍画像 身の丈6尺超の偉丈夫だった様で、ギョロ目の存在感ある顔ですね(自画像だそうです)

 

【江川氏とは】

 その前に、英龍が生まれた江川氏についてです。

江川氏は源氏の一族であり、平安末期に伊豆に移って、当初は宇野氏を名乗っていました。 源頼朝の挙兵を援けた宇野氏は、江川庄領有を安堵され、室町期には江川氏に改名した様です。

 国人として権力者に仕えた江川氏は、戦国期の後北条氏の支配まで韮山で生き残ります。韮山城の一角に江川曲輪(砦)という郭がありますから、伊豆・駿河を守る北条氏規の重臣のひとりだった様ですね。

 また江川氏には“酒造”という家伝の業が伝わっており、これがまた絶品だった様で、北条早雲が愛飲して『江川酒』と命名しました。北条歴代の当主も、この『江川酒』を進物の必須アイテムとして使い、信長や謙信、秀吉、家康などから絶賛されたそうですから、“芸は身を助く”ですね。

 

江戸初期には廃業した江川酒  近年に地元の酒蔵が復刻し、僅量ながら販売されるそうです。 ネットでも“ふるさと納税”の形で買えますね。

味は…ガイドさんの話では甘口で飲みやすく、アッという間に空になるそうです(^^;

 

 

 秀吉の『小田原征伐』の時、江川氏27代当主の英吉は韮山城に籠城し、かなり真剣に戦っていますが、嫡子の英長は出奔して家康の元に奔り、徳川軍に加わりました。

真田家と同じ、両面生き残り作戦ですね。

 戦後の仕置きでは、秀吉から『江川はそのままで良かろうもん』と言われていますから、やっぱり酒の力か?(^^; 

 かくして徳川配下となった江川氏、家康は当主を英長とし、伊豆、相模一円の自領(のちの天領)を管理する代官としました。管理範囲は最大26万石に及んだそうですが、家格は“旗本並“で、俸禄は僅か150石だったそうです。

この後、この韮山代官は江川氏宗家の“太郎左衛門家”が明治まで世襲して行きます。 

 

韮山城の北東麓にある江川邸(韮山代官所) 入場料は単独\650、反射炉とセットで\800でした

 

母屋は屋根の工事中ですが、中は見学できます

 

本来はこんな姿です(HPより借用)

 

正規の玄関から靴を脱いで入って行くと、話し上手なお姉さん(元)のガイドさんが待っていてくれました

 

展示品は多くは有りませんが、江川塾(鉄砲)の競技会の成績が展示されています。 25m先の5㎝角の銅板を撃った結果ですが、上田藩士の加藤励次郎さんの優秀さが160年後に伝わっています(^^;

 

有名な50坪の土間は見れますが、見事な梁組みは視認できませんでした

 

そのお詫びに、英龍缶バッジが貰えました。 さっそく愛用バッグに付けて、旅の供とします。

武の歳三に加え智の英龍…今後の旅が充実しそう(^^)

 

 

【何でも極めた青年期】 

 英龍は享和元年(1801)に35代当主:英毅の二男に生まれました。

この頃になると、武蔵の天領の代官も兼務した江川家の邸宅は江戸にも有り、夏場は江戸で、冬場は韮山で政務を執った様です。

 嫡子でなく、自由に育った英龍は奔放で、江戸ではあらゆるモノに興味を示した様ですね。学問は斎藤一斎に学び、佐久間象山、山田方谷、横井小楠などは弟弟子になります。

 書は市川米庵、詩は大窪詩仏、そして絵は“鑑定団”でお馴染みの谷文晁に学んでおり、広く最上級の勉学を受けていた訳です。

 中でも、特に好んだのが剣術で、岡田吉利の神道無念流免許皆伝の腕前にまでなります。同門で江戸三剣客の一人と言われた斎藤弥九郎とは仲が良くて、一緒に渡世人に変装しては博徒の抗争に参加し、白刃の下で実戦の心胆を鍛えた…と言いますから凄いものです。

 

 英龍が20歳の時、兄で嫡子の英虎が病死してしまい、英龍が嫡子となります。

すぐに英龍には“代官見習”の申し渡しがあり、以後の勉学は民政が中心となって、父について領内を巡検する日々だった様です。

   

外に出た家族のエリアは近年まで使われていたのか、生活臭を感じます

 

韮山竹は最初の節間が必ず割れるという珍しい植生で、小田原征伐の時に千利休が見つけて花器を作り、重宝したそうです

 

 

【世直し江川大明神】 

 英龍が34歳になった天保6年(1835)、父・英毅の死を受けて36代当主と韮山代官に就任します。

英龍は民政にも真剣に取り組み、自らが質素倹約を旨として、普段は“継ぎあて”のある木綿の野良着に身を包んで政務を執り、領内巡視も行ないました。

 また、当時その名声が高かった二宮尊徳を招聘して、領内の農地改良に取り組む傍ら、殖産のための貸付や飢饉時の蔵米出動も迅速に行なったので、領民の暮らしは安定しました。

 

 天保年間は天然痘が大流行しましたが、英龍は開発されたばかりの種痘をいち早く採り入れ、自らの子女に接種させる事で領民の不安を和らげた上で普及させたので、領民の被害は最小限に抑えられました。

 こうして、領民の信頼を得た英龍は、いつしか『世直し江川大明神』と呼ばれて敬愛される様になっていました。 

 

北側は代官所エリアですね

 

代官所の門みたいです

 

建物はあまり現存しませんが、蔵は幾つか遺っています 裏山が江川砦ですね

 

周囲は低い土塁で囲まれていますが、防衛機能ではなさそう

 

 

【老中のブレーンとして奔走】 

 同じころ、日本近海には通商や補給を求めた外国船の出没が目立つ様になります。

伊豆、相模の天領を管理する英龍にとって、これは他人事ではなく、“海防”という新たな課題にも頭を悩ませる事になります。

 鎖国継続が前提の幕府は『外国船打払令』を出しますが、これは何の方針も見通しも無い観念的な法令で、そんな中、モリソン号事件(幕府砲台が非武装の米商船を砲撃した)が起きてしまいます。

 対応に苦慮した幕府は、幕臣に広く提言を求めましたが、日頃から対応策を熟考していた英龍の建白書が群を抜いて秀逸で、老中:水野忠邦の眼に止まったので、以後は海防のブレーンとしても重用される様になって行きます。

 

 天保8年(1837)、英龍には副使として海防観点での江戸湾の巡検が命ぜられました。

正使は目付の鳥居耀蔵で、後に南町奉行となり、TVの『遠山の金さん』では悪役となる人ですね。 

 耀蔵は旧守派の精神論を大事にする人だった様で、この巡検でも英龍とは課題認識で折り合える訳も無く、ケンカ別れしてしまったそうです(^^; 

 

 『防衛力強化』が大前提の英龍は、当時もっとも砲術に詳しいとされる渡辺崋山、高野長英の二人に近付き、情報を仕入れます。

 あわよくば、両者の知見を元に海防策を組み立てる目論見でしたが、よくよく聴いて見ると日本の砲術は“大阪夏の陣”から進歩してなく、時代遅れも甚だしい事が判ります。

 また両者の言葉の端々から『早く開国して技術を学ぶべき…』というニュアンスを感じた英龍は、深い絶望感を受けた様です。

 

 この英龍の動きを快く思っていなかった鳥居耀蔵は、反幕の罪をでっち上げて両名を逮捕し、最終的に死に至らしめました(蛮社の獄)が、英龍だけは水野忠邦に守られ、罪に問われる事はありませんでした。

 めげない英龍は、長崎奉行所でオランダ人から西洋砲術の指南を受けた高島秋帆を知ると、すぐに訪ねて弟子入りし、砲術を習得します。

それでパッと視界が開けた英龍は、江戸に戻ると克服すべき課題をまとめて老中に建白しました。

 

 手始めとして鉄砲・大砲技術の普及に『江川塾』が開設され、品川(関藩邸跡)に調練場が置かれました。

生徒には、佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎など、錚々たる顔ぶれです。

 

続いて反射炉へ。 立派なガイダンス施設があり、賑わっています

 

英龍の死後、息子の英敏が佐賀藩の支援を得て完成させました。 英龍の遺産だから地元で大切に維持され、この状態で遺っているのは世界でも唯一の様です

 

しかし、技術革新の速度はあまりに速く、ここで軍備用に砲身が大量生産される事は無かった様です

 

 

【国防の在り方を求めて…】 

 嘉永6年(1853)、米国のペリー艦隊が来航し、強圧的に開国を要求します。

幕府の勘定吟味役になった英龍には、品川に江戸を守る砲台の築造が命じられました。(自ら提案していた)

 工事は突貫で進み、ペリーが再度来航した8ヶ月後には全12基中3基の台場が完成し、佐賀藩製の80ポンドカノン砲が20基据えられていました。

驚いたペリーは反転して横浜に投錨しましたから、威嚇効果は有った様ですね。

 

 英龍は併行して、砲を自前で生産する為の反射炉を建設していて、大量生産に備えました。

砲弾についても、単なる鉄球から火薬を内装した“爆裂砲弾”の研究も始めていますね。

 また、これらを操作して組織的な防戦を行なうために、軍制の改革も手掛けていて、古い観念に捉われて役に立たない武士に替わり、訓練がしやすい“農民兵”の組織化も始めていました。

 つまり、開国は不可避ながらも、西洋の兵制と兵器のレベルに早急に追い付いて、なるべく有利な条件での交渉…が英龍の描いていたシナリオだった様ですね。

 

 老中になっていた阿部正弘も英龍を支援し、進捗の便宜を考えて勘定奉行に任命しようと

していた様ですが、この様な長期にわたる八面六臂の活動には無理が生じ、病を得た英龍は安政2年(1855)3月、江戸本所の邸宅で永眠しました。

享年53歳でした。

 

江戸切絵図より、英龍終焉の地の江川邸 小禄ですから、津軽藩邸(現緑町公園)の西隣の小さな屋敷地です。 左の広い空間は御竹蔵で、現在は国技館と江戸東京博物館の敷地になっています

 

 

 英龍死後の動きですが、その2年後に“桜田門外の変”が起きる様に、古い観念での“攘夷論”が大勢を占め、幕府の改革は遅々として進みません。

ついには外圧に負けて、不平等な条件での開国を余儀なくされ、明治中期まで苦しむ事になります。

 逆に、英龍の思惑をいち早く取り入れ、兵制改革を行なった西国雄藩が力を付けて、13年後には幕府を瓦解させる事になるのです。

 

************************************

 

世の中が大きく動く時、方向を見失って右往左往するのは齢を重ねた者として哀しい事です。

令和4年が始まった現在、新型ウィルスだけでなく、超全体主義国の台頭や、欧州が仕掛ける低炭素社会の思惑、国連が提唱するSDGsのいい加減さなど…不透明なタイミングでこそ、こうした偉人の生き様(真の遺産)をよく考えてみる時なのかも知れません。