静岡冬の旅は伊豆国に入って、韮山城を訪ねます。
後北条初代の早雲が終の居城とし、“北条五代の聖地”と言われる城ですね。
伊豆の城 韮山城 登城日:2021.12.9
別名 龍城
城郭構造 平山城(山城の詰め城も付随する)
築城主 外山豊前守
築城年 文明年間(1480頃?)
主な城主 北条早雲、北条氏規、内藤信成
廃城年 慶長6年(1601)
遺構 水堀、土塁、堀切、郭、虎口、園池、屋敷跡
指定文化財 なし
所在地 静岡県伊豆の国市韮山431-3
伊勢新九郎盛時(以後:北条早雲)が、明応4年(1495)に堀越公方:足利茶々丸を攻めて追放し、伊豆国を得て新たな居城としたのがこの韮山城です。
一介の地侍が将軍の出先でもある堀越公方を攻めて国を奪うなど、下克上の始まりを象徴する様な非道な大事件にも見えますが、実はこれ、かなり違うんですよ。
〇〇公方とかやたら出て来ると、頭の中が沸騰してしまいそうですから、一旦ここで整理しますね。
*限定情報でシンプルに表しています
京で室町幕府が開かれると尊氏は、鎌倉に関東・東国を支配する幕府の出先(鎌倉府)を置き、嫡男の義詮をその長(鎌倉公方)に任命します。
鎌倉公方をサポートする実務責任者=関東管領には母:清子の実家の上杉家がその任に就きました。
義詮が2代将軍になると、弟の基氏が派遣され、その子孫が代々の公方を務めますが、時代が進んで幕府のタガが緩んでくると、在地の国衆に担がれて自治国を目指した鎌倉公方は幕府と対立しました。
幕府は関東管領の要請で鎌倉に軍を送り、鎌倉公方を攻めると、公方は下総の古河に逃げ、東関東の国衆に支えられて“古河公方”を自称します。
城址の東側にある“城池”は当時からの池で、水の手と思われます 池の北西岸に駐車場があります
駐車場の目の前(西側)が城址で、すぐに登城できます
現地案内看板 無料パンフは無いみたいですね
縄張り図が絵図で判りにくいので、日本城郭体系の縄張り図 本城と記したのがいわゆる韮山城ですが、背後に多くの支城と詰め城を伴う、広大な城域だった様です
幕府は新たな鎌倉公方として将軍:義政の弟の政知を鎌倉へ送りましたが、多くの国衆は馴染み深い古河公方に従ったので、政知は鎌倉へは入れず、上杉家領地の伊豆に仮御所を構えて“堀越公方”と称しました。
古河公方の討滅を企図していた幕府ですが、直後に起こった応仁の乱で派兵は叶わず、やむなく古河公方とは和睦して、黙認する形となります。
宙に浮いた堀越公方:政知は伊豆に定住する事となり、伊豆守護がメインの“名ばかり公方”となってしまいました。
明応元年(1491)、堀越公方:足利政知は病没します。
政知には三人の男子が居りましたが、長男:茶々丸は乱暴狼藉がひどく、政知の命で座敷牢に押し込められていました。
三男:清晃は京で僧籍にあったので、自然と次男:潤童子が公方を継ぐ事になりましたが、これを知った茶々丸は、家臣の手引きで牢を抜け出すと、潤童子とその母:円満院を殺害して、強引に公方に収まってしまいます。
郭内に登って行きます
一番広い曲輪の三ノ丸は、初期の居館跡と思われますが、韮山高校のテニスコートになっていて、女子部員がプレー中だったので、写真は断念(^^;
次の権現曲輪へ
権現曲輪には、その名の通り権現社が祀られています 背後は二ノ丸の切岸ですが、高いですね~
同じころ、室町将軍の後継でも波乱があり、義政の隠居で跡を継いだ嫡男の義尚が23歳で早世すると、嗣子が無かったので従弟の義材が将軍になります。
義材はヤル気満々で、何かと管領:細川政元を蔑ろにしたので、政元は義材の留守を狙って政変を起こし、義政の甥で天龍寺に居た清晃を還俗させて12代将軍:足利義澄として擁立しました。
つまり、堀越公方:足利茶々丸の異母弟が将軍になってしまったのです。
将軍:義澄が何を置いてもやりたかったのが、母と兄の仇である茶々丸の処刑でした。
駿河今川家に出向していた奉公人の北条早雲を呼ぶと、堀越御所の襲撃と茶々丸の殺害を命じましたが、さすがに早雲も、“公方”と呼ばれる足利家の一族を殺いる勇気はありません。
また政変があって義澄が失脚し、“公方殺し”の汚名だけが残る事も考えられます。
躊躇う早雲に義澄は、堀越公方の廃止と幕府の直接支配、更には今川家と扇ヶ谷上杉家の助力を文書で示し、成功の暁には早雲を伊豆国守護にする事も文書で約したので、やっと早雲もその気になりました。
二ノ丸に登って行きます
二ノ丸は広くはありませんが、土塁で囲われた“特別な曲輪”だった様です
早雲時代には非常時に妻子が籠る場所だったかも…
最高所の本丸へと進みます
かくして明応4年(1495)、夜襲を掛けた早雲は堀越御所を焦土とし、家臣の多くは降伏します。
茶々丸は脱出し逃走しますが、早雲の探索は厳しく、伊豆下田で自刃して果てました。
こうして将軍の命に従って超合法的に伊豆守護を手に入れた早雲は、重税に喘いでいた領民(8公2民とも…)に対し、4公6民の善政を敷いたので、領内の抵抗はすぐに治まったそうです。
早雲が伊豆統治の拠点としたのは、堀越御所の東2㎞ほどの韮山と呼ばれる地で、茶々丸の家臣:外山豊前守の屋敷&砦跡でした。
駿河興国寺城から移った早雲は、韮山城を築城し、以後はここを拠点に西相模へと進攻し、領地を拡げて行くのですが、小田原城を奪取してからもそこは嫡男:氏綱に任せて、自身は韮山城から動かず、永正16年(1519)、64歳(88歳とも)でこの城で没しました。
本丸は広さは有るものの、緩傾斜面になっていますから、建物は無く、物見の機能だったのかも知れません
本丸から東の天ヶ岳を臨む この山頂が詰め城になっていました 麓の池の傍の平地は、中期の居館跡と比定されています
ここから南は痩せ尾根になりますが、なぜか城内側が土塁で城外側が通路になっています…
その先に“塩蔵”と呼ばれる半地下遺構があります 兵糧の保存庫だった?
最後は小曲輪で守られ、南に急坂で落ちています
早雲死後の韮山城も、北条領西端の重要な城として維持され、在地の豪族:笠原氏、清水氏が城代として詰めましたが、この城が大きな戦いの中心となったのは、北条氏最晩年の天正18年(1590)に起こった豊臣秀吉による“小田原征伐”の攻防戦です。
織田信長の頃から中央勢力の侵攻を予期していた北条氏は、方面軍団制を敷いて、西部方面の軍団長には氏康の四男の氏規が就き、韮山城を居城にしていました。
立地上、氏規には中央との交渉役も課せられており、度々上洛して秀吉との交渉も果たしています。
また、家康とは駿府で共に人質として過ごした旧知の仲でもあり、自ずと中央の情勢や北条家が採るべき途も見えていた様ですが、関八州に270万石の所領を持つ当主の氏政、氏直親子が秀吉に臣従の判断を下す事は無く、韮山城に籠って豊臣軍を迎える事となります。
城内の兵力は僅か3千6百と言われ、それでも分散して城域すべてを守ります。
対する豊臣勢は織田信雄を大将に、蒲生氏郷、細川忠興、福島正則など4~5万の大軍で包囲します。
山中城の様にこの大軍が一気に攻め掛かるのかと思いきや、各隊は付城を築き、遠巻きに包囲するだけで、兵糧攻めの様相になって来ました。
氏規を知っている秀吉にすれば、力攻めをしてでも首を取る対象の将ではなく、降伏後の使い道とか思う所があって、『無理には攻めず足止めせよ』という指示ではないでしょうか?
『秀吉の大軍に耐えたにしては、コンパクト過ぎませんか?』…と言いたくなる所ですが、後期の韮山城の居館跡地は高校になっています。 この敷地の広さで山側に居館があり、西側は二重の水堀で守られていたそうです
韮山城の強さの秘密は、支城(砦)の多さにもありました 手前の山上が土手和田砦、奥のピークが天ヶ岳砦跡ですが、「砦、付城跡は私有地につき、立入はご遠慮ください」との事(^^;
最終段階では、小田原城や岩付城の様に“惣構え”が築かれた様ですが、守兵が3千6百ではどうにもなりませんね…(-_-;)
やがて各隊は、押さえの兵を残して大半が小田原城の包囲へと移動して行きます。
おそらく1万5千程度が残ったのではないかと思われますが、そのまま月日が流れ、関東での華々しい戦況が伝わり出すと、攻囲の兵達も戦功を求めて攻撃に転じます。
一転激しい戦いとなり、6月2日には山上の砦が占拠され、6日には下城(外郭か?)も堕ちました。
このタイミングで徳川家康と黒田官兵衛が誘降に訪れ、交渉の末、15日に降伏開城を判断した氏規は、24日に徳川家臣の内藤信成に引き渡しました。
小田原城開城の10日前の事です。
氏規への処分は寛大で、当主の氏直(家康の娘婿)と共に高野山に登って蟄居しますが、すぐに赦されて河内に所領を与えられて大名待遇とされ、その子孫は江戸時代を通じ河内狭山藩1万1千石の大名として明治まで続いて行きます。
その後の韮山城は、そのまま内藤信成に1万石で与えられましたが、信成は関ヶ原の後に駿府4万石に加増移封となったので、韮山城の役目は終わり、廃城となりました。
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『鎌倉殿の13人』最初の舞台はここか?
伊勢氏が北条氏と名を変えたのは2代:氏綱からであり、関東での“北条”のネームバリューに肖る目的だったと言われています。
では、本家本元の鎌倉幕府執権:北条氏の故郷・本願地は何処だったの?…と言えば、それもこの韮山なのです。
韮山城から西へ2㎞ほど…、あれ?前に出て来た様なフレーズですが、そう、堀越御所が有った場所が平安末期の北条館の跡なのです。(厳密には隣接地となっていますが…)
現地看板より位置関係 隣接ですが、既存宅地の調査はされていない様なので、同一敷地と考えて良さそう
大河ドラマに向け準備万端な感じの北条館跡 ただ、遺構はほとんど残っておらず、ただの原っぱです
発掘調査は終わってる様で、透明アクリル板で現在の風景に投影できる様に工夫された展示がありました
堀越御所跡にあった“北条政子産湯の井戸” ほらね!(^^;
堀越御所跡は、空き地としての保存で、遺構はありません
当時と変わらないのは、富士山の姿だけか…(宝永火口は見えとるけど)
北条時政は在地の土豪で、平治の乱の後、流刑となった源頼朝の監視役を仰せつかった…と言われます。
頼朝が流された場所は“蛭ヶ小島”と言われていますが、その比定地は北条館と韮山城の中間の僅か1㎞ほどの至近距離です。
昔の大河ドラマで、婚礼を前にした政子が馬を飛ばして頼朝の館に逃げ込む場面がありましたが、実際には歩いて15分の距離でした(^^;
韮山城本丸から確認した位置関係 当時は狩野川の氾濫原の中洲だったそうです
蛭ヶ小島は史跡公園になっています 建物は頼朝の館ではなく、移築農家ですが…
園内には、富士に向かって立つ頼朝&政子像が
甲斐善光寺にある頼朝木像の面影がありますね(^^;
年明けからの『鎌倉殿の13人』がどのシーンから始まるかは知りませんが、おそらくは韮山からになるんでは?…と、予想するのですが、三谷脚本だからなぁ(^^)
31歳の頼朝が21歳の政子を娶って、韮山で暮らしたのは3年ほどですが、二人が見ていた景色が目の前にあります。
他にも、幕末に活躍した『韮山代官:江川太郎左衛門英龍』の遺構も数多く有り、韮山は歴史に溢れる町でした。