穏やかな冬晴れに恵まれた先週、静岡の城跡を幾つか巡って来たので、この年末年始は静岡ネタで乗り切って行きます(^^;

 

 

日本200名城 №145 興国寺城 静岡県 登城日:2021.12.8

 

 別名        根古屋城
 城郭構造      連郭式平山城
 天守構造      不明
 築城主        伊勢盛時?
 築城年        15世紀後期
 主な城主       北条氏、今川氏、武田氏、松平氏、中村氏、天野氏
 廃城年        慶長12年(1607年)
 遺構          石垣、土塁、空堀、曲輪、天守台
 指定文化財    国の史跡

  所在地     静岡県沼津市根小屋428

 

 

 続日本100名城に選定されている興国寺城です。

司馬遼太郎の『箱根の坂』で詳しく取り上げられている様に、伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)の“最初の居城”と伝わる事から、国の史跡にも指定されています。

 盛時(以後は早雲と表記)が城主になったのは長享元年(1487)の事で、今川氏の内訌を収めた戦功に対する恩賞と言われますが、明応2年(1493)には伊豆国を奪取して韮山に移っていますから、6年足らずの在城だった事になります。

 

 その時の興国寺城がどんな城だったかは判りませんが、早雲が去った跡には興国寺という寺院が建ち、天文18年(1549)に今川義元がその興国寺を移転させ、城郭として整備させたそうですから、現在に遺る縄張りや遺構とは程遠く、小規模な城塞だった事が想像されます。

 その理由としては、今川氏の属将と伊豆堀越公方の奉公人を兼務する早雲の立ち位置があり、つまり堅固な城を必要とする係争地では無かった訳ですね。


現地看板より興国寺城縄張り 池沼、泥田に囲まれた戦国期の縄張りですね

 

小田原駅前の北条早雲像 大胆な行動と将軍家とのパイプ…まだまだ謎に包まれた武将です

 

城址入口 堀跡から三ノ丸を観る感じか? 土塁は殆ど遺っていません

 

反対方向の南側 県道を挟んだ空き地の奥に土塁痕があるので、あそこまで堀だった様です

 

三ノ丸から二ノ丸へは空堀と土塁で仕切られ、枡形虎口になっていた様ですが、もう不明瞭 石垣も使われてた様です

 

 富士郡と駿東郡の境にあって、愛鷹山が海に迫る“地峡”に位置する興国寺城が重要視され出すのは、永正16年(1519)に早雲が死去し、跡を継いだ氏綱と今川氏との主従関係が破綻した“河東の乱”以降の事です。

 天文5年(1536)、今川氏・北条氏で共闘していた武田信虎と、今川氏の新当主:義元が同盟を結ぶと、氏綱は駿河に侵攻し、富士川以東を占領してしまいました。

 

 氏綱はこの河東に青地弾正を置いて守らせましたが、翌天文6年には武田信虎がこの青地弾正を調略して、武田領に組み入れてしまいました。

信虎はすぐに河東を、義元に嫁ぐ娘の“化粧料”として今川氏に渡したので、今川氏は労せずして河東の奪還を果たします。

 興国寺城が大改修を受けたのは、この後の事の様で、北条氏に対する前線基地の機能だったのでしょうね。

 城主(城代)としては、佐竹雅樂介高貞の名が見えます。

 

 

二の丸東側 本丸との微妙な高低差が有りますが、土塁は崩されて農地化した痕跡かも知れませんね

 

二ノ丸西側 こちらも同じくで、早い段階の廃城ですからやむを得ない事です。 奥の高土塁に囲まれた平場が本丸です。

 

本丸には江戸期に高尾山から穂見神社が勧進されて建っています(無人)

 

神社の脇には初代:北条早雲と末代:天野康景の城主の碑があります

 

石碑の隣に事務机が置いてあり、プラケースに続100名城スタンプと、抽斗にはパンフが入っています(^^;

 

 天文14年(1545)、今川義元は関東の山内上杉、扇谷上杉と謀って北条氏を挟撃すべく駿東郡に出陣します。

 関東勢は武蔵河越城を囲みますが、これに古河公方が加担出兵した為、兵力は8万にも膨れ上がり、氏綱の跡を継いでいた氏康は大ピンチに陥ります。

 氏康は武田信玄に働き掛けて義元との調停を依頼し、駿東郡すべてを今川氏に返す事で和睦に成功し、まず西のピンチを脱します。

 この直後、『河越夜戦』に臨んだ氏康は大勝利を収め、関東平定の地歩を固めて行くのですが、甲相駿三国の共存・棲み分けが決まった瞬間ですね。

 

 天文23年(1554)、三国は当主が駿河の善徳寺に集まって会見し、正式に甲相駿三国同盟が締結されます。

いわゆる“善徳寺の会盟”ですね。

 しかし最近では三者が会見したのは善徳寺ではなく、この興国寺(城)だった…という説が有力なのだそうです。

そうすると、『駿河の富士は尻丸出し…』 と信玄が発したのはこの場所だったのですね(^^;

*あくまでも、ドラマの脚色ですが

 

本丸は高土塁で囲まれていて、北側は10m以上ありそう 本丸御殿から富士は見えませんね

しかし、地形から見て、版築ですよこれは。

 

煙族はすぐに一番高い土塁上を目指して昇ります(^^; 一部に石垣もありますね

 

野面の乱積みですから、中村一氏の作か?

 

石垣の上には建物の礎石が遺っていて、“天守台”と言われる所以です。 この建物からは富士が良く見えたでしょうね。

 

土塁上は西側は狭くなって…

 

最後は物見櫓風に広くなっています

 

 

 次に興国寺城の帰趨に動きがあったのは、永禄11年(1568)の末で、武田信玄が三国同盟を破棄して駿河に侵攻しました。

永禄3年に義元が桶狭間で討死にして以来、弱体化が止まらない今川氏に対して信玄が見限ったという事でしょうが、これに対して北条氏康は“今川氏救援”と称して興津まで出陣し、信玄と対峙しました。

 この時に、駿東郡と富士郡の一部をまんまと自領に取り込み、興国寺城に垪和氏続を駐屯させて守らせました。

 

 駿河での北条vs武田の争いは一進一退で推移しましたが、信玄は翌永禄12年末に碓氷峠から北条領に侵攻し、縦走して小田原城を囲みます。

これは示威行軍で、すぐに甲斐に退くのですが、撤退戦の“三増峠の戦”では北条方に大打撃を与えます。

 すでに病床にあった氏康は、遺す息子達との戦力差を痛感して、「武田とは争わず同盟を復活する」事を遺言して世を去ります。

  2年後の元亀2年(1571)、北条氏政は駿東郡西部を割譲する事で信玄と和睦し、甲相同盟が復活しました。

初めて武田氏の属城となった興国寺城には、穴山梅雪の臣:保坂掃部介が入ります。

 

土塁上からの城内全容 郭の仕切が取り払われ、近年まで畑地だった事が伺えます

 

相模湾と伊豆半島を遠望 現市街地は“浮島ヶ原”という一面の低湿地だた様です

 

北側に眼を転じると、北条の城らしいダイナミックな大堀切

 

堀の向こうは“北ノ丸”という郭内ですが、江戸期にはもう放棄されていたらしく、絵図には“原野”と書かれています

 

 

 武田氏の興国寺城支配は天正10年(1582)の甲州征伐まで続き、城主も向井正重→曽根昌世と代わって行きます。

曽根昌世は真田昌幸と同じ“信玄奥近習6人衆”のひとりですが、もう早くから勝頼を見捨てていた様で、遠江から徳川家康が攻め寄せると一戦も交えずに降伏開城し、以後は徳川家臣になり活躍しています。

 

 徳川領となった駿河で、家康は興国寺城に牧野康成を入れて守らせましたが、すぐ後に起こった天正壬午の乱で伊豆国に配置転換されたので、後には竹谷松平家の松平清宗が入りました。

 

 天正18年(1590)、北条氏が滅びると、徳川氏は北条旧領の関東に移封になり、清宗も武蔵八幡山に移ります。

 興国寺城は新たに駿府に移って来た中村一氏の持ち城となり、家臣の河毛重次が入って管理しましたが、本丸土塁の石垣遺構が水口岡山城の石垣にソックリなので、この人の仕事なのでは? と思います。

 

堀底を体感しに下りて行きますが、大堀切の東出口あたりは二重堀になっていますね

 

はい、堀底の北側です。 ん?薬研堀か?

 

見上げる天守跡あたりは流石に高いですね(^^; 堀底を通路に使わないなら薬研で良いのだけど、橋が要るしなぁ…

 

…と思いながら歩いて行くと、西の出口が虎口になっていました。 箱堀です。

 

 

 関ヶ原が終わり、家康の元に各大名がシャッフルされた慶長6年(1601)、興国寺城に配置されたのは家康譜代の天野康景で、1万石での興国寺藩の立藩でした。

 康景は幼い頃から家康の小姓として仕え、駿府の人質時代も共にした“竹馬の仲”でした。

慎重でソツが無い事から重用され、長年の功に報いる大名への登用だった筈ですが、慶長11年(1607)に、康景が領内の治水工事に蓄えていた竹木が盗まれる事件があり、家臣が盗人を追いかけて殺傷しました。

 当時の警察行為としては有りがちな措置ですが、この盗人が天領の住民だった事から、代官の井出勘助が訴訟に及び、大モメします。

 

 これを聞いた家康は『康景に限って、間違いは無いだろうが…話を聴いて来い』と側近の本多正純に命じます。

しかし、“事件を収めて来い”と受け取った正純は、興国寺城に着くなり“殺害犯の引き渡し”を要求したので、これに激怒した康景は一族郎党引き連れて城から逐電し、寺に籠ってしまったので藩は改易され、興国寺城は廃城となりました。

 

 おそらく、駿府の家康の政務一切を代行する正純にすれば、その片腕として駿河代官を務める井出の言い分も聞かざるを得なかったのでしょうけどね。

 

北ノ丸跡に登って見た本丸土塁 この高低差です。

 

東側の堀跡は現状も湿地でした

 

北ノ丸の北側の堀切は、電車の線路に変わっていました 右手が城址です

 

ちょうど来た電車の顔を撮ろうとしましたが、指の動きもシャッタースピードも追い付けません(^^;

 

 

 続100名城に選ばれた興国寺城でしたが、対比すると次に訪れた韮山城の方がより相応しいのでは? という思いが残りました。

まぁ、地元の協力が必須のこういうモノには、政治が働きますから、地域バランス…なんでしょうね。