山田方谷の続きです。
空前絶後の藩政改革の達成で、山田方谷の名は一気に高まりますが、方谷がその理念を曲げ中原に立つ事は、ついに有りませんでした。
【藩政改革・産業と民政編】
藩札は藩内でのみ通用する紙幣ですが、松山藩の藩札は財政難からの乱発が原因で信用を無くし、その価値は著しく下がっていました。
領内の産品は、藩が藩札で買い付けて大坂や江戸で売り、差額の利益は藩の収入になるのですが、領民は藩札での決済を渋り、その結果領内の産業は活力を失って停滞していました。
藩札の信用回復が急務と考えた方谷は、領内に触れを出し、発行済みの藩札を換金する形で全て回収して、公衆の前で焼却処分しました。
その上で、“永銭”と呼ばれる新藩札を発行しますが、これは藩の換金額が明記された“固定相場”の藩札だったので信用は回復し、また藩札決済が可能になりました。
藩札が安定すると藩には現金が集まる様になります。
次に方谷はその資金を使って、大規模な産業振興策に打って出ます。
北部の鉱山を開発して大量の砂鉄を採掘すると、出雲から鍛冶職人を呼び寄せて“鍛冶町”を作り、それまでの和釘に加え“備中鍬”を大量生産しました。
また、農家の二男、三男を対象に資金を融資して、荒れ地の農地開墾を行ない、その農地にはタバコ、ハゼ、茶、柚子などを作付けさせ、次々に“特産品”を事業化して行きます。
これらの産品は大阪商人に売るのではなく、藩の蒸気船に積んで直接江戸へ運び、藩邸で近隣の商人に売ったので、他藩のものより安価であり、飛ぶように売れたといいます。
高梁市のゆるキャラ“ほうこくん” 本と備中鍬を持っています なんか、自慢できそうなゆるキャラ(^^;
芋掘りに便利な備中鍬 本来は“股鍬”と呼ばれた鍬ですが、幕末に備中産が大量に普及したので、“備中”の名が定着しました
こうして得た利益は生産者に還元される一方で、生活困窮者の救済や開拓農家の無利子融資に使われ、罪人の更生事業にまで及びます。
さらに旱魃・洪水・大火などの非常時に対処する備蓄米などの制度も整備されています。
すっかり暮らしやすくなった領内は活気にあふれ、人口の増加も相俟って、5万石の表高ながら実高は20万石にも伸びた…と言いますから、凄いもんですね。
そして最後に、嘉永3年(1850)から10%カットされていた藩士の俸禄が元に戻されたのは、安政2年(1855)の事ですから、僅か5年で改革は完了した訳ですね。
この時点で大商人からの借金はほぼ完済され、2年後には留保金は10万両を越えたといいます。
前回、『理財論』の事を載せました。
『名君と賢臣が思いをこらし、ぜいたくを排除し、賄賂を禁じ、民物を豊かにし、文教を盛んにすれば財政は健全になる…』というものでしたが、方谷の藩政改革はまさにそれを具現化したものと判ります。
藩政治とは領民の端々まで豊かにする事であり、武士層の利益だけ求めると民衆は動いてくれない。 また利害の異なる者達それぞれに忖度していては、物事は何も進まない。 武士層が質素を旨とする事で本来の目的を明確に示し、領民もれなく豊かにして行けば、おのずと人は動く。 人が動けば産業は活性化し、人材が育って、藩は健全に発展するのだ…という事です。
なにか…政策には常に反対する勢力が居て、結局一歩も前に進まない、現在の閉塞した日本にそのまま当て嵌まる様な理念ですね。
板倉勝静画像 方谷との巡り合わせが生涯を大きく変えます しかしそれは、きっと“良い出会い”だったと受け止めていたでしょうね
備中松山藩板倉家上屋敷跡 霞ヶ関1丁目にあり、主に法務省が入るビルが建っています
【藩政改革・文武充実編】
この時代は、諸外国の開国要求があり、幕府の弱体化と相対した国論の多様化があって、藩主:勝静はこの先を見据え、藩士の文武両面での質の向上を課題と見据えていました。
方谷もこの点は同感で、まずは学問の広範な普及策として、身分を問わない奨学策を実施しています。
かつて牛麓舎で方谷の教えを受けた高弟達はそれぞれ私塾を開いてこれに応え、その中で優秀な者を幕府の学問所“正平學”に十数名も送り込んでいます。
武力に関しては、方谷は西洋兵法について研究を続けており、砲術の習得と銃砲の購入を進めていました。
しかし、正規兵の武士層には依然として刀に固執する者が多く、洋式訓練は進みません。
そこで方谷は、郡奉行にも就任した嘉永5年(1852)からは各庄屋に働き掛け、猟師や農民の堅強な若者を集めて“農兵隊”を組織し、訓練を重ねました。
非常勤の隊の兵員は1200名に及び、年に1回高梁川の河原で演習を公開しましたが、これを見学に来た長州藩の久坂玄瑞はたいへんなショックを受けたそうで、後の“奇兵隊”の創設へと繋がります。
そして武士層には領国警備を名目に国境に近い要地に入植して山野を開墾しての屯田兵策を進めます。
“帰農”に近いこの策は当然ながら命を狙われるほどの大反発を受けるのですが、方谷自身も城下から10㎞ほど上流の永瀬に移住して、週に3日は付近の山野を開墾して暮らしたので、
反発は次第に静まって行きました。
却って、格の上下や儀礼に強く縛られる堅苦しい武家の生活から解き放たれた下級武士には好評で、その後は入植者が相次ぐ事になります。
長瀬の旧宅跡
塾の様子を描いた画が遺っていて、当時が偲ばれます 国に帰る河合継之助は渡し船で対岸に渡ると、見送る方谷に三度、土下座を繰り返したそうです
長瀬には昭和3年に国鉄伯備線が開通し、方谷の旧宅跡が駅になりました。 駅名はズバリ“方谷” 地元の熱意で決まったそうです
この頃になると、山田方谷の名は全国に知れ渡り、訪問者・弟子入り志願者が多く訪れる様になります。
そんな一人に、越後長岡藩士:河合継之助が居ました。
継之助は“経世済民”習得を求め、江戸の学者に紹介されての訪問で、当初は農民出身の方谷を『安五郎』と呼ぶなど、無礼で尊大な態度でしたが、方谷の人柄に触れ、事績を知るに連れて心酔する様になり、数か月の滞在の後、別れ際には平身低頭して謝し、帰って行ったそうです。
方谷は餞別にと“王陽明全集”を贈りましたが、その裏表紙には『貴方は賢いが、賢さは時として仇となるので、気を付けなさい』とのアドバイスが書かれてあったそうです。
お馴染の河合継之助画像 帰国後に藩政を主導し、家老になります 方谷の忠告は…う~ん、残念
【幕末の動乱と教育者への回帰】
安政4年(1857)、藩主:板倉勝静は幕府の寺社奉行に登用されました。
次いで文久2年(1862)には老中に昇格しますが、難しい時代に幕府の舵取りを任される事態に方谷は、藩の職務を弟子の大石隼雄や三島中洲に譲ると、江戸屋敷に詰めて勝静の顧問・相談役としてサポートします。
しかし、15代将軍に慶喜が就いて、勝静が老中首座になると、激動はいよいよ深まります。
『至誠惻怛』の理念を共有する方谷と勝静でしたが、立場の違いは克服できず、どうしても徳川を捨てられない勝静は方谷の役を解任して、『藩と領民を頼む』と新たに執政に任命して帰国させました。
戊辰戦争での顛末は“備中松山城《下》”で触れたので割愛しますが、岡山藩の支配下となった松山藩に対して、新政府からは“首謀者としての山田方谷の首”を要求する声があったそうです。
しかし岡山藩にも方谷に学んだ藩士は多く居り、結局は方谷が罪に問われる事はありませんでした。
明治4年の廃藩置県で藩が消滅し、全ての役職を解かれた方谷は、長瀬の屋敷に住んで私塾を続けていました。
そこに新政府の岩倉具視と木戸孝允から“新政府の閣僚に参加して欲しい”旨の熱心な要請が届きます。
しかし方谷は頑として受けず、教育者としての余生を選択しました。
学者は政治の理念を教えるが、それが上位の求めを果たす役人になったらば、理念は慣行できない。それよりも高い志を持つ者をより多く育てる事が私の天命であり、本懐なのだ…という事でしょうか。
備中国は深津県になり、そして小田県と名前を改めて行きます。
小田県令に就任した矢野光儀は、その御礼に内務卿:大久保利通を訪問しましたが、大久保から『もう山田方谷に逢ったか?』と問われて答えに窮してしまいます。 知らなかったのです。
『山田方谷を知らずに小田県令が務まるか!』と一喝された矢野はすぐに方谷を訪ねましたが、方谷はそんな矢野を労い、土産に通商会社設立の提案まで持たせてくれました。
後日、改めて大久保を訪ねた矢野は、その提案を行いましたが、大久保は中身をろくに確認もせず、すぐに承認を決めたので、矢野はひどく驚いた…そんな逸話も遺っています。
小阪部にある山田方谷記念館 火曜日だったけど休館日でした(^^;
近くの金剛寺境内にある“方谷庵” 母と母方の祖父母の霊を祀り、礼拝する為に建てました
中は非公開の様ですが、侘び寂びの佇まいが方谷らしさを伝えています
長瀬塾の生徒が50人を超え、いよいよ手狭になったのを見計らって、方谷は阿賀郡小阪部へと移住をしました。
小阪部には母:梶の実家があり、最愛の母と先祖の供養を気に掛けていた方谷が決断した、安住の地ですね。
小阪部では代官所跡(最後は旗本:水谷家の領地だった)を購入して家を建て、私塾と大半の塾生もそこに移転します。
“小阪部塾”にはまた全国から塾生が集まり、常時200人が勉学したと言います。
小阪部での方谷は教育者の傍ら、母の生家:西谷家の菩提寺である金剛寺の傍に草庵を建て、母と先祖の霊を祀って礼拝を欠かさなかったそうです。
また、手が空くと近所の幼児を伴っては散歩に出て、自然の草花や虫を見るのを日課にしていました。
恩師:丸川松隠の域に達して、次の山田方谷を探していたのかも知れませんね。
公園になっている小坂部塾跡 道路の拡幅や河川改修で広くはありません
明治10年6月、73歳でこの地に没した方谷 その枕元には顕彰碑が建っていて、題字は勝海舟だそうです
- 完 -