備中松山城を歩いて、“この城で生きて、一番輝いた人は?”と考えると…
やはり『山田方谷』ですね。
城址や城下にも『山田方谷を大河ドラマに!』という幟がたくさん立っていました。
『ちょっと難しいかなぁ』という先入観はあるのですが…
では、山田方谷って何をした人か? を三行で書き表すと
江戸末期に農家の子として生まれ、苦学して学問を身に付けて藩士に登用され、破綻寸前の藩財政を黒字化・健全化した人です。 その理念とプロセスは他藩に手本とされ、後の多くの著名人に大きな影響を与えた学者・技術者・政治家(?) となります。
山田方谷画像(高梁市HPより借用) この人、見た事あります?
一般にはそう派手で知名度の高い人ではありませんが、知名度の薄さにこそ価値があり、近年は方谷を慕い目標とする政治家や学者・経営者のコンテンツも散見されるので、『備中聖人:山田方谷』について、その魅力を探ってみたいと思います。
【出自と幼少期】
山田方谷は文化2年(1805)、備中松山藩西方村(現高梁市中井町)で菜種油の製造・販売を生業とする農商:山田五郎吉の長男として産まれました。通名は安五郎と言います。
山田家は元来清和源氏系の武家で、地頭職を務めていましたが、戦国の争乱で没落し、帰農した家だった様です。
*鎌倉期の地頭分布図に阿賀郡呰部庄(現真庭市北房町)に山田太郎重英の名があります
父は自家の凋落を嘆き、“いつかは武士に”と期していた人なので、幼児期の方谷の非凡さを見抜くと、5歳にして北隣の新見藩の学者:丸川松隠に預けて学ばせました。
母の梶は領内小坂部村(現新見市大佐町)の西谷家の娘で、製鉄で財を成した名家なので、その人脈・財力に頼ったのかも知れませんね。
高梁市西方町に遺る方谷生家 御子孫がお住まいなのか、史跡にはなっていないので遠くから…
川の対岸の山田家墓所は『方谷園』として整備され、お参りできます
方谷の墓もここに有りました 題字は板倉勝静筆だそうです
丸川松隠は高名な学者で、松平定信の幕府出仕要請を断って新見藩校:思誠館の学頭を務めていましたが、方谷を気に入って孫のように可愛がりました。
松隠はその死まで方谷の勉学に物心両面で便宜を計っていますから、最愛の弟子=最高の作品だったのでしょうね。
7歳になった方谷を新見藩主:関長誠が引見する機会があり、『まだ幼児がなぜその様に勉学に励むのか?』…と問ったところ、方谷は『治国平天下』と答えて、長誠がぶったまげた…という逸話もあります。
方谷14歳のとき、母が病に倒れました。
急ぎ新見から駆け付けた方谷に母は、『学を志す者が母の病くらいで狼狽えてどうしますか!』と一喝し追い返したと言います。
その10日後に母は亡くなりましたが、方谷の晩年の言動からも、この母の影響と思慕は尋常では無かった様です。
新見市役所前の松隠&方谷の像(岡山観光webより借用) 『その慈愛は父母をも超えていた』と方谷が述懐した恩師です。 こんな人が近くに居た幸運が聖人:山田方谷を創ります
【家業を継ぐ】
翌年、西谷家の分家から後妻を貰い、家業を続けていた父も過労で亡くなります。
跡は弟が継ぐ手筈でしたが、まだ幼く病弱な弟には当面無理なので、方谷はやむなく学問を中断して実家に戻り、家業を継ぐ判断をします。
師:松隠は“国の宝を失う”ほど嘆いたそうですが、方谷は農作業の傍ら、行商の合間にも勉学は欠かさず、松隠との交流も続いた様です。
17歳のとき、松隠塾で顔馴染みだった新見藩士の娘:進を嫁に貰いますが、これも松隠の口利きが有ったのでしょうね。
一層家業に打ち込んだ方谷は、近隣の村人とも良く交わり、学が有るのでずる賢い役人や商人に騙される事も無く、次第に村人から信頼される様になって行きます。
しかし、当時の村人の暮らしは過酷で、懸命に働いても収穫の殆どは年貢で取られてしまい、磨り減って早死にする人が多かった様です。
年貢を取る藩も、米は大商人に安く買い叩かれ、窮乏を大商人からの借金で埋める… つまりは大商人を富ます為だけに皆が懸命に働いている。
方谷はこの社会構図に大きな憤りを感じていました。
そんな方谷21歳の時、“篤学の農民”が居る事を聴きつけた藩主;板倉勝職から『農商の身にて文学心掛け宜しき旨を聞き、二人扶持を下しおく。是より、折々は学問所に出頭し、尚この上とも修業し、御用に立つ様申し付ける』との沙汰書が届きます。
つまり、藩校:有終館での勉学が許され、奨学資金として500kg/年の米が支給される事になったのです。
翌年には待望の長子も生まれ、再び勉学の道が開かれた事は、方谷には長いトンネルを抜けた思いが有った事でしょう。
板倉勝職画像 暗愚で奢侈と淫らな行為を重ねて藩財政を悪化させ…(wiki))と散々な評価ですが、勝静を養子に迎え、方谷を登用し重用したのはこの人です
【京、江戸に遊学する】
学問と家業に励んだ方谷は、23歳のとき更なる高みを求めて京都に遊学します。
家業が端境期になる夏場を選んでの半年間の遊学で、寺島白鹿の塾で学びましたが、中途半端だったのか、2年後には再度遊学しています。
この年の暮れ、帰国した方谷は藩主:勝職に呼び出され、名字帯刀の許しと8人扶持中小姓の身分が与えられ、有終館の教授に招聘されました。
つまり、正式に藩士に登用された訳で、亡き父の宿願が早くも叶ったのです。
しかし、方谷の学問への探求心は深まるばかりで、翌年には教授を辞して、3度目の京都遊学へ向かいます。
今回は資金も潤沢なので、家業は弟に任せ、2年間の予定です。
京都では色んな学者と交流し、多様な塾で学んで、幅広い学識を得ました。
途中で故郷の弟から、「家業が上手く行かない…」との泣きが入りますが、『学を極めるのは主命、天命であり何より私の志だ、その為に家の資産が減るのは小事だ』と返しています。
その頃に、王陽明の『伝習録』を読んだ方谷は、『陽明学』に強く惹かれ、深く学ぶ為に遊学期間を3年間延長して江戸に向かいました。
方谷29歳の年です。
江戸では丸川松隠の学友だった佐藤一斎の門を叩きましたが、その頃の佐藤塾には松代藩の佐久間象山も遊学していて、毎日二人で激論を交わし、“佐藤塾の二傑”と呼ばれましたが、学識・人格ともに優れているとして塾頭を務めたのは方谷でした。
この時の遊学で方谷は、各藩が財政破綻に陥る現実への対策案として、『理財論』を書いています。
『政策は義を追求して、利に惑わされず、贅沢を戒め、民物を豊かにし、文教を盛んにすれば財政は健全化する』と述べていますが、この考え方は後の藩政改革の基本理念になります。まだ30前後で、偉いですね(^^;
おなじみ、佐久間象山画像 後に師事した河合継之助は、『象山の学才は凄いが人格は嫌いだった…』と言っており、個性の強い人物だった様です
32歳の春、故郷に居る一人娘が天然痘で11歳で死去しました。
その秋に藩主の参勤に伴われて帰国するのですが、その後に心を病んだ妻の進とは離縁する事になります。
学者である前に、一人の親として、夫として、5年ぶりの帰郷は辛いものになりました。
【有終館学頭と世子教育】
帰国の道すがら、藩主:勝職から有終館学頭(校長)への任命が有り、方谷の禄は60石に上がり、城下に屋敷も拝領します。
これで方谷の仕事は学問研究と藩士教育でいっぱいになり、農家の仕事は弟に全て譲る事となりました。
藩校は藩士の子弟が6~7歳で入学し、朱子学での素読、音読、論語、歴史、詩文の他に武術も教えます。
それぞれの科目に教授が居り、学頭は教授の教育がその役割ですが、そんな環境に飽き足らなかったのか、方谷は自宅で私塾も始めました。
臥牛山麓にあり『牛麓舎』と名付けられた塾には、京都寺島白鹿の息子や三島中洲、島鴻渓、大石隼雄など常時数十名の生徒が通いました。
武芸に比して学問が軽視される風潮の中、体育会系の悪戯は酷かったそうですが、皆よく学んで、後の藩政改革には方谷の尖兵として活躍します。
藩校:有終館跡(高梁商工会議所HPより借用)
方谷の私塾:牛麓舎跡(津山瓦版より借用)
天保13年(1842)、男子の居なかった藩主:勝職は陸奥白河藩主:松平定永の8男:寧八郎を婿養子に迎え、世子とします。
40歳になっていた方谷に新たに課せられたのは、この寧八郎の教育でした。
松平定信の気風が遺る白河藩で生まれ育った寧八郎改め板倉勝静に、方谷の教えは見事にマッチした様で、綿が水を吸うが如くに次第に藩主としての至誠惻怛(誠をつくし、人を思いやる心)が育まれて行きました。
嘉永2年(1849)、勝職が隠居し勝静が新たな藩主に就任します。
勝職は間もなく病死したので、大恩を感じていた方谷は喪に服す傍ら、勝職に殉じて全ての職を辞し、私塾と耕作の余生を考えていました。
ところが、勝静に呼び出され要請されたのは、藩の元締とそれを監査する吟味役双方への就任でした。
つまり、藩の財政の全てを方谷に一任したい…という事です。
再三固辞した方谷でしたが、勝静の藩政改革に賭ける並々ならぬ意欲に、遂に受ける事を選択しました。
ちなみに、加増された役料はわずか10石でした。
【藩政改革・財務編】
若い新藩主と農民上りの元締兼吟味役の就任に藩士たちは不安を覚え、反感を募らせます。 これに対し方谷は、改革の骨子を連日時間を掛けて説明し、重臣達から次第に了解を得て行ったと言います。
まぁ財政破綻目前は共通の認識であり、それでも解決手法を持てず、個人の利の行方が心配な重臣達ですから、影響が少ないと判ると“任せて見ようか”となったのでしょうね。
それでも知恵が無く、武士の特権のみに拘る中・下級藩士の誹謗中傷には勝静みずから発信し、『今後は方谷の言は我が言と心得よ!』とやったので、改革断行に道筋がつきました。
改革に先立ち方谷は、藩の財政を正確に調べました。
それによると、5万石の石高で藩に入る実入りは1万9千石しかありません。
これは家臣の俸禄や城中、江戸・大阪の屋敷の経費、参勤費用の合計とほぼイコールで、災害・旱魃や幕閣就任・幕府御用などのイレギュラーは借金で賄わなくてはなりません。
そんなこんなで借金は10万両に膨れ上がり、年1万両の利息を返す為にもまた借金をするという悪循環です。
領民への借金の藩札も、むやみやたらに発行するものだから信用を失っていました。
まずは可能な限り歳出を抑え、藩米や産品の流通経路を見直して収益率を上げ、産業自体を活性化させて生産量を増やし無借金体質に変換して行かなければなりません。
家臣の俸禄に対しては、黒字化までの間は10%カットが言い渡され、その分は質素倹約が指示されます。
具体的に着物は綿のみ、食事は一汁一菜などがこと細かく規定され、藩主自らも率先垂範したので、これは意外に早く定着しました。
また、折々の贈答などの虚礼慣習が廃止され、役人の村巡視にも接待は無用とされたので、領民に喜ばれます。
藩の借金は殆どが大坂商人からのものでしたが、方谷は大坂に乗り込み、貸主を集めて藩の財政状況を正直に伝え、綿密な返済計画を説明した上で頭を下げ、返済期間の繰り延べ(10年→50年)を請願します。
困惑した商人達でしたが、それまでの居丈高な申し入れと違い、財政が管理されつつある事の変化を知った商人から『まぁ、よろしんやおまへんか』という声が出て、返済年額の削減に成功します。
さらに、藩米は大坂の蔵屋敷に集めて、販売は商人に一任していましたが、蔵屋敷を廃止して、藩独自で相場を見ながら市場に出す事に改めました。
これで蔵屋敷の経費が節減された上、藩米の利益率も大幅に向上しました。
この様にして、歳出削減の施策は順調に滑り出すのです。
**************************************
山田方谷をサラリと書くつもりでしたが、紹介するには不可欠な事柄が多過ぎて、長文になってしまうので、この辺で“中入り”にします(^^;
しかし、こうゆう話を自分自身の過去に置き換えてみると、随分と無駄な浪費をしていたものだなぁ…と思います。
仕事を引退して、歳出は半減しましたが、それで豊かさが失われたと感じる事は皆無なので、本当の豊かさとは何なのか? を考えさせられてしまいますね。
《後編》につづく
*この記事の内容は、高梁市HP『山田方谷を語る』をベースにしています