近世小松山城~古城大松山城と、山上の城址をひと通り巡ったので、最後は城下に下りて遺構を散策します。
松山城下の高梁市街 高梁川沿いの狭い平地に犇めく様に城下町が広がっています
古絵図で見ると、街道に沿って見下ろす様に根小屋や寺院群が並び、備中国の中心地であった事が判ります
文久2年(1862)、老中に昇格した備中松山藩主:板倉勝静は、欧米の圧力と攘夷の国論で混乱する政局の中で将軍を補佐し、幕政に専念します。
藩政は、“執政”の任にあった山田方谷にほぼ一任しており、方谷は千名以上の農民兵を組織し、様式訓練を施して藩を守るべく備えました。
大政奉還を経て、鳥羽伏見の敗戦を経てもなお将軍と行動を共にした勝静は江戸に戻っても徳川を見捨てられず、会津→仙台→函館と転戦して行きます。
徳川吉宗の玄孫…という血なのでしょうか。
こうした動きは領国には大きなマイナスで、激怒した新政府は備中松山藩の改易を決め、岡山藩に命じて攻撃させます。
この危機に方谷は独断で無血開城を決め、岡山藩と交渉して開戦は回避されました。
小高下谷川の右手に有る御根小屋跡は、現在は県立高梁高校
上流を望むと左手になりますが、川が内堀の役割を果たしていた様です
天守内に有った復元イラスト 山城の完成形はこうですよね
御根小屋の石垣はほぼ全てが遺っていました
御殿の表門はそのまま高校の正門になっています
松山城の山裾を守る様に、高石垣がずっと延びています
現地案内板
同時に方谷は函館と江戸に人を派遣して、勝静を半ば強引に江戸に連れ戻して謹慎させる一方、板倉一族で部屋住みだった勝弼を松山に連れ帰り、新たな藩主として押し立てて、改易の撤回を嘆願します。
“勝静の行動は立場と血がなせるもので、藩の意志とは異なるもの”としてこの主張は認められ、備中松山藩は2万石への減封で存続を認められました。
*この藩主交替には後日談があり、方谷の独断専行に憤った藩の重臣達は、新藩主の勝弼に迫って、『勝静の嫡男の勝全が松山に戻ったなら、速やかに勝全に家督を譲る』旨の念書を書かせていました。
これを聴かされた勝静は松山に戻ると提出を求め、旧臣達の前で『勝弼の家督は正当な理由と適切な手続きにより成されたものであり、各々は今後も勝弼にこそ忠節を誓うべし!』と言って念書を破り捨てました。
勝静はやっぱり漢です(^^)
その後の子爵の爵位と板倉宗家の家督は、勝弼の子孫が受け継いでいます。
しかしその藩も、2年後の明治4年には廃藩置県で消滅してしまいます。
備中松山城は陸軍省が管理するところとなり、翌明治6年の太政官公達により廃城となってしまいました。
根小屋の南側に隣接する石火矢町は中~上級家臣屋敷地 景観が良く保たれています
武家屋敷の幾つかは文化財で保護されて、内部が見学できます 長屋門のこの屋敷は旧折井家(160石取)
邸内はあいにく団体さんが居てガイドさんの解説を聞いていたので、宝物蔵だけ見せてもらいます
平門のこの屋敷は埴原家(120石取) ここはじっくり見せてもらいます
二間幅の式台と玄関 奥の座敷には華灯窓と洒落ています
中級の知行高ながら8LDKの堂々の屋敷で、庭も立派です
この埴原家は4代藩主:勝政の生母の実家(側室)らしく、数寄屋造りの瀟洒な屋敷でした
廃城後の松山城は、まず御根小屋が取り壊されて明治33年に跡地に高梁中学校(現高梁高校)が建ちます。
天守はじめ山上の建物群もわずかな金額で商家に売却されましたが、峻険な立地ゆえ解体・搬出もままならず、放置されて荒れるに任せていたそうです。
昭和5年、そんな崩壊寸前の城の惨状を憂えた高梁中学校教諭:信野氏が調査記録を出版すると、高梁町(現高梁市)内で爆発的に修復・保存の気運が盛り上がりました。
昭和14年、町は町費の過半を城の修理に注ぎ込むという超積極財政出動で“昭和の大修理”が実行され、ほぼ現在の姿を取り戻しました。
家臣団屋敷の南に続く寺町の頼久寺 完全な城塞造りで“支城”を兼ねた寺ですね
頼久寺は足利尊氏が諸国に起こした臨済宗安国寺のひとつで、その為か歴代城主に手厚く保護されました。 寺号は戦国武将:上野頼久の菩提寺になった事に依ります
備中兵乱で荒れた城下に家康の代官として赴任した小堀遠州は、ここを陣屋として政務を執りました
15年間の滞在中の片手間?にじっくり築造した枯山水の庭園は…
国の名勝にも指定され、小堀遠州の代表作のひとつです
血で血を洗う戦国の世にあって、武将達が心の平穏を取り戻す大切な場所だったのでしょうね
以前にドキュメンタリー番組で、中学生が瓦を1枚ずつ山上に運び、復元する姿が放映されていましたが、そうして町民総出で取り戻した城は“誇り”でもあり、愛着につながります。
地域住民に愛されている城かどうかは訪ねて見れば判りますが、備中松山城に贋物や余計な建造物は何もありません。
麓の売店のお姉さんは用意した弁当を売り切るのに懸命でしたが、他に商業主義が見えないのは自信の裏返しですね。
職員もガイドさんも『私たちの自慢の城をぜひ見て、何かを感じてください』といった対応で、久々にずいぶんと気持ちの良い城歩きができました(^^)
備中松山銘菓『ゆべし』 小堀遠州が茶菓子として考案し、板倉勝職の代に銘菓として定着したのを山田方谷が産業として育て、現在に至ります。
備中松山城 完
次は山田方谷について少し掘り下げてみたいと思います