現存12天守のひとつ(1683年築)が遺る備中松山城。

その天守内部に入って見ます。

 

廃城後に放置されてた天守は、昭和14年に解体修理され、平成12年にも改修されて現在に至ります

 

昭和初年の天守古写真 付け櫓は失われ、天守も崩壊寸前です

 

  元禄6年(1693)、備中松山藩主:水谷氏は3代目の勝美が嗣子の無いまま早世し、無嗣改易となってしまいました。

城と領地の管理は播磨赤穂藩浅野家に命じられ、城の受け渡しに赴いたのが家老の大石内蔵助良雄で、内蔵助は1年余り城代として在城したそうです。

吉良邸討ち入りの10年前の事ですね。

 

 元禄8年(1695)、上野高崎藩から安藤重博が6万石で移封して来ます。

松平広忠以来の三河譜代である安藤氏は幕府の要職を歴任し、重博も後に老中になって、6万5千石に加増されています。

 重博を継いだ信友もまた若くして奏者番になり、次いで寺社奉行も兼務したので、正徳元年(1711)にはより便利な美濃加納藩に転出しました。

 

付け櫓内部はちょっとしたホールになっています 階段で下見板のある天守内へ

 

一層目の躯体はシッカリしていています 通し柱も頑丈そう(^^)

 

虫食いも無く、表面仕上げから改修時に交換された新しい部材なのが判ります

 

囲炉裏です 北陸・東北の城には有ったでしょうが、この地方には珍しい冬季籠城用ですね

 

正面唐破風下の格子窓 内側に跳ね上げる板戸と止め金具がついています

 

窓からは本丸、二の丸が一望

 

天守の狭間はさすがに射角が合っています(^^;

 

 

 ちょうどこの頃、全国的に『元禄検地』と呼ばれる“高直し”の検地が行なわれています。

年貢の徴収基準である石高の、新田開発や技術革新等の実態に添った見直しになるのですが、これは幕府が天領からの大幅な収奪増を主目的にした政策で、畑作物や休耕田、放棄田も課税対象となる厳しいものでした。

 各藩の検地は厳正を期すために、利害の絡まない他藩の役人が入って計測する決まりで、備中松山藩の検地には姫路藩本多家が当たりました。

その結果、備中松山藩の検地台帳石高は6万石から12万石に一気に倍増しています。

 

 それで大名の領地が半減された訳ではありませんが、賦役は増えるので実質は減俸ですね。

また藩内では、検地で実質の収穫量が変わる訳ではないので、領主・家臣と民衆での取り分を巡っての訴訟や一揆が頻発する様になって行きます。

 藩の行政能力や藩主の資質・手腕が問われる時代に入った訳です。 

 

一段高い入母屋破風内にある“装束の間”は城主一家の御座所

 

二層目に上がる階段脇の柱は古材との継ぎ柱ですが、古材の方に割れが出ています

 

二層目は随所に古材の再活用が見られます

 

江戸初期の古材がそのまま使われているから“現存天守”なのですね(^^)

 

床材は細かい仕事が成されています 藩領北部は豊富な砂鉄による“タタラ製鉄”が盛んで、和釘は藩の特産品のひとつでした

 

二層目には大きな祭壇が有り、多くの守護神が祀られていて、安泰祈願の場だった様です

 

 

 次いで備中松山藩に入ったのは石川総慶で、山城淀藩からの6万石での移封でした。

家督継承直後のわずか7歳での移封ですが、この石川氏は数正の直系ではなく、叔父:家成の家系のため徳川幕府でも譜代大名として存続していました。

ただ、石川一族で大名家は一家だけ、しかも小藩で幕閣就任は皆無というあからさまな“冷や飯”具合です。 草創期の功臣の家なのに、いつまでも…厳しいですね。

 

 総慶は松山では不可なく務めた様で、特筆される業績も失政も見当たりませんが、在任33年、40歳の延享元年(1744)、伊勢亀山藩板倉氏と交替で東海道の要地に移封されました。

しかしこの交替には裏があった様で、結果的に石川氏は亀山領内で板倉氏が作った借金5万両を背負う羽目になり、幕末まで財政苦に悩まされる事になります。

 

 

外に出て、天守の裏へ回り込むと二重櫓があります

 

これも現存櫓で重文ですが、落書きが酷かった(*_*;

 

二の丸まで下りて、帯曲輪を後曲輪へと進んで行きます ここの石垣も良い感じ(^^)

 

さらに進んで、見上げる本丸櫓群 背筋の寒くなる様な“見下ろされ感”が心地よい こういう景色が脳内に記憶され、何もない“失われた山城”でも再現されて、トリップできる訳です(^^;

 

搦手虎口…なのですが、その先の道は明瞭ではありませんから、殆ど使われなかったのでしょうね

 

後曲輪には変わった形の櫓台が…

 

平櫓に付随して石垣で囲まれた土間スペースがあり、奥は雁木になっています 全天候型番所?

 

振り返ると、天然のさざれ石に載った二重櫓 こうした意匠の発想に小堀遠州の才を感じる訳です

 

 

 新たに備中松山藩主となった板倉氏も三河以来の譜代で、他にも安中藩(3万石)、福島藩(3万石)、庭瀬藩(2万石)といった分家があります。

備中松山藩が宗家で、5万石ながら代々の藩主は幕閣を歴任しており、幕府の中枢を担ってきた家でした。

 そんな自信とプライドは家中にも多分に有り、それは藩政の主に財政面ではマイナスに作用した様ですね。

 そしてこの頃からの板倉家は病弱で若死にする藩主が続き、藩政は家臣任せとなってしまい、抜本的な思い切った改革が打ち出せないまま、財政赤字を借金で補填する“借金体質”に陥ってしまった様です。

 

後曲輪の横に水の手門があり、その先は下り坂で…

 

木橋の架かった堀切になっています

 

堀切の対岸より  どうやら近世城郭:小松山城はここまでの様ですね

 

古城:大松山城址へと向かいます 観光客で賑わっていた小松山とは打って変わって、貸し切りです(^^;

 

水の手を守る天神の丸跡 江戸期には天神様が祀られていた様で、正保絵図にも社殿が描かれています

 

近世城郭も水の手はこちらだった様で、溜池が整備されています

 

本当に馬が洗えそう(^^) 山城でこれだけの水資源確保は珍しく、三大山城に相応しい施設ですね

 

 

 板倉家6代目藩主の勝職も暗愚な人物で、“奢侈と淫行を重ねて藩財政を悪化させた”…と、散々な評価なのですが、男子を授からなかった勝職は早々に養嗣子を決め、白河藩主:松平定永の子:寧八郎を娘の婿に迎え、嗣子としました。

寧八郎改め板倉勝静は松平定信の孫ですから、優秀な血による刷新を企図した訳ですね。

 更に勝職は、農商の身ながら学才に長けていた山田方谷を抜擢して士分に取り立て、藩校:有終館の教授に据えたうえ、勝静の教育も方谷に任せました。

勝職、名君じゃん(^^;

 

 嘉永2年(1849)、勝職は47歳で隠居し、勝静に家督を譲ります。

さっそく、勝静+方谷の藩政改革がスタートし、過酷な耐乏生活ながらも膨大な借金は見る見る減って行き、逆に蓄財の黒字体質になるまで僅か7年という大マジックが実現します。

 この藩政改革は幕府に大いに評価され、勝静は老中に登用されて幕府を担う事になりました。

さらに、慶喜政権では老中首座となって、板倉家は過酷な維新の動乱へと突っ込んで行くのです。

 

水の手を過ぎると有る大松山城碑 初期の秋庭氏の城はこの先のエリアで完結していた様ですね

 

本丸と二の丸に囲まれた“溜り”の平場

 

初期の井戸も綺麗に遺っています

 

本丸の壇上 土塁痕も皆無で、山を削平して木柵で囲んだ“いわゆる曲輪”だった様です

 

二の丸、三の丸も同様なので、城機能は早い段階で放棄され、小松山城だけになっていた様です

 

 

次回は城下を見て行きます。

 

《下》につづく